みなさん、小中高生の時代に卒業記念にということで、校庭の隅に「将来への自分へ」という手紙をタイムカプセルとともに埋めた経験はありますか。私は小学校4年生の時に「二分の一成人式」なる授業を行い、そこで書いた「成人した自分へ」というメッセージを10年後の同窓会の際に返却されるという経験がありました。さて、今回はそんな過去から、過去の思い出からやってくる手紙についてです。
死後に届くメッセージ
去年の末から大阪のほうで「すまいるポスト」というユニークな手紙のサービスが始まりました。
これは生前のうちにお世話になった友人や、一言いっておきたいあの人へのメッセージを書いておき、そのサービスを通じて死後宛先人のもとへ届けられるというものです。
これは、いつの間にか昔の知人・友人の死に物理的な問題や、仲違いなどの理由からすぐ気づくことができなかったという発案者の経験によるそうです。日本郵政公社の郵便サービスでは投函から10日までしか日付指定配達ができないために、痒いところにやっと手が届いたようなサービスといえます。
生前にしておくべきではないでしょうか
しかし、本当にこういったものに頼らなくてはならないのでしょうか。
生きているうちにお世話になった人へ手紙を書く、という行為をエンディングノートと並ぶ「終活」としてポジティブに捉えることができるのではないでしょうか。またエンディングノートはある種の自分の履歴書であり、そこにお世話になった方々は現れてきません。そう言う意味ではお世話になった方へのメッセージは、自分と他者の関係性という視点から生前整理を行うことにつながります。
自分の人生は例えるなら一本の長い時間の面です。それだけでは味気ない寂しく続いてきた時間です。しかし、自分とAさんとの関わりのある人生はまた別の面を持っています。さらに自分とBさんとの人生もまた別の面を持っています。こうして見てみると、お世話になった人の数だけ人生はパイのように厚く重層的になって、より味わい深いものになるでしょう。そうして、分厚く焼きあがったパイを昔を懐かしみにながらおいしく頂く。お世話になった方々を巡るように便箋に筆を走らせることはそういうことなのではないでしょうか。
「どうして、もっとはやくいってくれなかったんだろう。」
私が幼い頃、亡くなった祖父の葬式の後で遺品の整理を手伝っていると、その中からブリキ缶が出てきました。
その中にはいつも一緒にいた家族にそれぞれ宛てた手紙が入っていました。幼かった私を考えてか平仮名と漢字が入り混じった文体で書かれていた自分宛の手紙を一生懸命読んだあとに私は思いました。
「どうして、もっとはやくいってくれなかったんだろう。」