年の盆に関西出身の私は、数年ぶりに関東にある親戚の家とその近所のお墓にお参りへ出かけました。一通り用事を終え、親戚一同仏壇の前で談笑している中、私はその家の仏壇にあった骨壷に目を留めました。
大きかった実家の骨壷
どうも私の家のものより一回り大きいようなのです。近くへ寄って、断りを入れてから持ち上げてみても自分の祖父のものより重いのです。同じ骨壷なのに、どうして大きさも、その重さも異なっているのでしょうか。
第一に大きさについて、どうやら日本では宗教宗派関係なく、地域という地理的な要因によって骨壷の大きさが異なっているようです。それを大別するならば、日本をちょうど東西に分けて考えると良いでしょう。東日本、すなわち関東を中心とした地域の方が西日本よりも骨壷が高さ7センチほど大きいようです。ではなぜこのように骨壷の大きさが地域で異なってくるのでしょうか。それは次の重さに関係があります。
全収骨と部分収骨
さてその重さについて、骨壷の大きい東日本では、火葬した遺骨を全て収める「全収骨」が一般的なようです。となると、小さい骨壷の西日本では遺骨を全て収めることができなくなります。そこで行われるのが「部分収骨」です。これは収める遺骨を選んで骨壷をコンパクトに抑える方法です。遺骨を選ぶ基準は人間にとって大事な骨、頭蓋骨や腰骨、喉仏などです。どうしてここで喉仏が選ばれるのかという理由は後述しましょう。さてこれで私が骨壷を眺め、そして持ち上げた時の疑問は解決しましたが、更なる疑問が浮かびます。ではなぜ、このような違いが生まれたのかという根本的な疑問です。
起源は明治時代にあった!
事の発端は明治期にさかのぼります。当時は火葬場が墓地に付属していました。故にその場で荼毘に付し、その場で埋葬する形態でした。しかしこれを時の明治政府が禁止します。そこで関東では火葬場と墓地が離れ、「全部収骨」して遺骨を運ばねばなりませんでした。では関西はどうだったか。これはお笑い種ですが、関西では政府のこうした政策が遵守されず、依然火葬場と墓地が隣接している状態にありました。となれば、埋葬する遺骨は取り上げられず、自宅の仏壇に置いておきたい大事な遺骨だけ取り上げる「部分遺骨」が採用されたわけです。明治になってやんちゃな江戸っ子になったのは関西人だったようです。
大事な骨である「喉仏」
さて、大事な骨の中に「喉仏」があるのはどうしてなのか。その疑問をここで解決しておきましょう。端的に言えば「仏」の名の通りその形が座禅して合掌する仏様のようだからです。つまり喉仏は人間の体の中で唯一仏様が宿る場所と考えられた故に、部分収骨の際に取り上げられますし、骨壷の中でも上部中央という最も目に付きやすい位置に置かれるようです。ちなみに、関西の中でも私の住んでいる地域では更に喉仏へのこだわりが強く、喉仏専用の骨壷まで存在しています。それはお堂の形をしており蓋も観音開きになるという、まさにお寺の中に仏様が鎮座しているようだと、小さい頃の私は物珍しく眺めていました。
まとめ
以上全国的な骨壷の形状の違いから収骨方法の違い、延いてはその起源を探ってみましたが、これらはあくまで伝統であり、最近では部分収骨を採用することが多くなってきているようです。その理由について推測ではありますが、各家庭に仏壇がある時代が去り、大きな骨壷を仏壇の中で管理しきれないこと、また大きな骨壷には全遺骨が収められており、故人を失った悲しみが大きく感じられる、という二点にあるのではないと考えられます。悲しみをなるべく思い出さぬよう骨壷も小さく目立たぬようにする傾向にあると言えるでしょう。