江戸時代の大名、老中として有名な松平定信。その定信の墓は東京都江東区の霊巌寺にあり、木々に囲まれ閑静な雰囲気の自然の中に、悠然と佇んでいる。少し前、その松平定信の墓地を訪れる機会があった。
松平定信とは
その大きな墓石は造られてからの時間の経過を感じさせる様子でありながらも、周りは綺麗に整えられており、そこが大切に手入れされてきたのが分かる佇まいであった。そして、霊巌寺の墓前の看板には松平定信についての軽い説明が書かれている。以下はその引用である。
「史跡 松平定信墓
松平定信(1758〜1829)は8代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。
天明7年(1787)6月に老中となり、寛政の改革を断行、寛政5年(1793)に老中を辞めている。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った。また、朱子学者でもあり、『花月草紙』『字下の人言』『国本論』『修身録』などの著書もある。
昭和51年3月31日 建設 東京都教育委員会」
寛政の改革について
寛政の改革は、吉宗の行った享保の改革、水野忠邦が行った天保の改革とならび、三大改革の一つに挙げられる。
松平定信が政治の権力を握り、寛政の改革を行う以前は、老中田沼意次による政治が展開されていた。株仲間の推奨などで幕府の財政を建て直そうとしたが、幕府の利益を優先させる政治に諸大名や庶民の反発が高まる。明和の大火、浅間山の大噴火などの天災も相まって、飢饉状態に陥り、人々は一揆や打ちこわしなどが急増して失脚した。
その後に政治権力を握った松平定信は、天災や飢饉に備えることが出来るよう、囲米を人々に命じ、また棄捐令を出し旗本・御家人の救済を計った。田沼期の人々の政治に対する不満を受け止め、人々の暮らしが改善していくように動いたことが分かる。しかし、朱子学を幕府公認の学問と定め、古学などの他の学問を禁止する、洒落本や黄表紙などが規制されるなど、弾圧的な政策もいくつかあり、その様子は当時の狂歌などにも表れている。「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」これは、白河藩主である松平定信の政策の厳しさと、賄賂などの疑いがあった田沼意次の政治を併せて詠み表し、寛政の改革の批判をしているものである。
松平定信と神人一体
磯崎康彦氏の著書『松平定信の生涯と芸術』には、以下のような記述がある。
「定信は、寛政年間後半、神道祭祀に傾倒し、自らを神人一体とするように考え、文人姿と武人姿の二体の木彫りを制作させた。木彫りには、文武両道の意味が込められていた。天明4年(1784)、定信は白河領に入ると、城内に藩祖松平定綱を祭る鎮国殿を建て、この霊社に寛政年間中頃、文人姿の木彫りを安置した。もう一体は、白河半邸下屋敷浴恩園の感応殿に諸神像と共に置かれた。定信は、藩祖と同じように藩土からの尊崇を求めたのである。定信は、木彫り以外にも自らの肖像画を白河の霊社に納めた。撥乱反正の肖像画である。画面に、「撥乱反正 賞善而罰悪」(乱を撥めて正に反し、善を賞して悪を罰す)と天明七年六月「定信自写」と書かれる。これは、白河藩士服部半蔵が、江戸在勤の奥平八郎左衛門に定信画像を依頼し、白河に運ばれた作品であった。白河藩では、年始をはじめ必要な祭儀に応じて藩士にこの画像を参拝させたのである。」
この文章において、神人一体とは神人合一と同義であり、つまり松平定信は自己を神として祭るよう人々に求めたということである。現代では、自分を神として讃えよと言う人が居たら、おそらく変な目で見られることが多いだろう。もちろん、自己を神とする行為は江戸時代当時においても一般的であったとは言い難い。しかし、文政12年(1829)、江戸の白河諸藩邸が大火で焼失し、避難先の伊予松山藩邸で松平定信が死去した際、没後の天保4年(1833)11月に守国霊神、翌5年に守国明神、安政二年(1855)に神宣を受けて守国大明神の神号を受けた。定信は没後に神人一体を成し遂げているのである。
今でも三重県桑名市に鎭國守國神社という神社があり、そこに松平定綱と共に祀られている。
墓地の様子から感じられる想い
人は誰かに愛される一方で、誰かには憎まれる。遍く全ての人に愛される人などは居ないだろう。松平定信も、厳しい政策を行った者として、規制の対象になった戯作者や町の人々から憎まれただろう。しかし、藩主として土地を治め、老中として江戸の人々を飢饉から助けようとしたのもまた事実である。現代まで緑に囲まれた大きな墓地が綺麗に保たれていることから、たしかに人々に愛されていた人物であったことが分かるだろう。