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東京都葛飾区の南蔵院にあるしばられ地蔵がぐるぐる縛られている理由

東京都葛飾区東水元の南蔵院は、盗難除け・足止め(ある一定の場所を離れないようにすること)・厄除け・縁結び・受験など、ありとあらゆる願い事を叶えてくださるという、「しばられ地蔵」で有名だ。それは、高さ1メートルほどの石のお地蔵さまだが、何故、分厚く、縄でぐるぐる巻きに縛られているのか。

このことは「お地蔵さま」そのもののありようと関連している。地蔵菩薩はとても慈悲深く、衆生のあらゆる苦しみを代わりに引き受けてくださる「代受苦(だいじゅく)」を体現している菩薩だが、それを「縄で縛られている格好」で表象していると考えられるのだが、この「縛られ地蔵」は、ドラマや映画で「遠山の金さん」同様、名奉行で知られる大岡越前こと忠相(ただすけ、1677~1751)のお裁きがきっかけであると伝えられている。

東京都葛飾区の南蔵院にあるしばられ地蔵がぐるぐる縛られている理由

泥棒の行いを黙って見ていた地蔵も同罪とした奉行

泥棒の行いを黙って見ていた地蔵も同罪とした奉行

南蔵院が現在地に移転する前、現在の墨田区業平橋1丁目に所在していた、享保年間(1716~1736)のことである。

ある夏の日に、日本橋の呉服屋の手代(てだい、商家の番頭と丁稚の間に位置する使用人)が、大量の白木綿を背負って、或いは荷車に載せて、柳島(やなぎしま、現・墨田区〜江東区の業平、横川(よこかわ)、太平(たいへい)、錦糸町、亀戸(かめいど))へ商いに行った帰り、業平橋または南蔵院の門前に立っていたとされる石地蔵のそばで昼寝をしてしまった。

しばらくして、手代が目覚めたときには、反物全てが盗まれてしまっていた。慌てて南町奉行所(現・千代田区有楽町)に訴え出たところ、忠相はなんと、「泥棒の所業を黙って見ていたとは、地蔵も同罪である!召し捕れ!」と命じ、荒縄で地蔵を縛り、市中引き回しの後、お白洲(しらす、今日の法廷)に引き出させた。

当時の忠相は新任だったことから、町人たちは興味津々で奉行所に押しかけてきた。

忠相は頃合いを見て、奉行所の門を閉じるように命じた。そして、「みだりに奉行所に立ち入るでない!今いる者どもに、3日以内に木綿1反を納めることを命じる!そうすれば地蔵の罪障も消滅し、手代も主人に言い訳が立つだろう」と告げた。

3日後、大量の木綿が山のように集まった。役人たちがそれらを調べたところ、手代の呉服屋の印がついたものも混じっていた。それをきっかけに、江戸市中を荒らし回っていた盗賊団が捕まることになった。忠相の「名裁き」が大評判となった。そして地蔵の罪も晴れ、縄を解かれないまま、放免された。程なくしてこの石地蔵は盗難除けにご利益があるということで、多くの人々の崇敬を集め、今日に至っている…

しかし忠相は、必ずしも「名奉行」だったわけではなかった。

米価安が続き、当時の市民の生活は苦しかった

「米高間(こめたかま) 壱升弐合(いっしょうにごう)をかゆにたき 大岡くわれぬたつた越前」
(米が高くて、銭100文ではたった1升2合しか買えないのでおかゆにしたが、たくさん食べられず、たった1膳だけだ)

と、日本橋本船町(ほんふなちょう、現・中央区日本橋本町1丁目、室町1丁目)で米問屋を営んでいた豪商・高間伝兵衛(たかまでんべえ、生没年不明)と忠相をかけた、米の価格の高さに対する不満を訴えた狂歌がある。

この歌が生み出された当時の状況を概観しよう。忠相が南町奉行に就任中だった、1733(享保18)年正月26日の夜だった。2000人、または3〜4000人とも伝えられる暴徒が伝兵衛の店に押しかけ、大暴れした。これは江戸時代初の暴動、いわゆる「高間伝兵衛打ちこわし」事件だ。

その打ちこわしが起こったきっかけは、1722(享保7)年頃から江戸市中において、「米価安の諸色高」、すなわち、米価が下がっているにもかかわらず、それ以外の物価は高値のままであるという状況が続いていたことにある。当時は今日の日本や世界各国とは異なり、「米」の価格によって経済が決まっていたのだが、米を換金して生活していたのは、武士階級の者だった。そのため、地方の城下町のように、侍たちの需要に強く依存している地域であれば、米価安が諸色安に移行するのは容易だった。しかし、侍たちの消費以上にあまたの町人たちが経済を支えていた江戸市中の場合は、そうはいかなかった。町人たちにとって、米価安は、生活費のうちの食費の割合低下を意味する。そうなると、それ以外のものの購買力の維持、或いは増大をもたらし、生活そのものの圧迫がつのる一方だったのだ。

米価安への対応を求めて意見書を提出した

1723(享保8)年、幕府は江戸・京都・大坂(現・大阪府)の町奉行らに、「米価安の諸色高」への対応を求めた。その中で忠相は北町奉行の諏訪頼篤(よりあつ、1661~1753)と連名で、以下の意見書を提出した。

1. 炭・薪・醤油・塩などの日常品は、それを扱う問屋・仲買・小売に仲間を結成させ、毎月の相場書(そうばがき)を提出させる。そこで不意に高値がついた場合は、仲間に調査させる。

2. 浦賀奉行から江戸出入り廻船の荷物改(あらため)の報告書を、毎月提出させる。

3. 大坂(現・大阪府)からの荷物は、問屋から大坂町奉行へ積荷先を届けさせ、江戸宛ての分は、毎月江戸町奉行へ報告させる。そうすれば、相場を独占すべく荷物を隠し持つことは不可能になる。

4. 浦賀から江戸間の海上で、相場を独占すべく、廻船がたむろしているため、代官に取り締まらせる。

5. 商人たちが自分の取り扱う品以外も、利益を見込んで買いあさっている。そのため、商品の買い手が増え、値段が高くなっている。そうなると市場が狂うため、取り扱い商人を定め、組合をつくらせて商売をさせる。

6. 問屋以外でも荷物が取り扱われていることから、想定外の諸色値段の高騰を招いている。そのため、問屋以外での荷物の取り扱いを禁止する。

これらのねらいは、商人仲間をつくらせ、問屋を限定し、それを幕府が統制することで、相場を管理しようとするものだった。そうすれば、米の値段と諸色の値段とが自然と釣り合うはずだと、忠相らは「楽観的」に考えていた。

米の流通量をコントロールしようとした幕府

1724(享保9)年2月、幕府は物価引き下げのお触れを発した。それを受けて忠相らは、明確な理由なく高値で商売する者には、罰金を科していいかを幕府中枢に問い合わせた。それは即日許可され、諸物価を米価と引き合わせるために、強権的な方策が取られることとなった。

しかし、それから3年近く経過した、1726(享保11)年12月、呉服や酒・紙・炭・薪などは少しずつ、問屋相場価格は下がったものの、小売価格は以前のままだった。

さらに事態は悪くなっていった。米を換金して生活していた侍たちの多くが、借金返済不能になってしまった。そうなると、貸した側の町人たちは黙っていない。彼らは「体面」を重んじる侍たちの弱点を突く格好で、強硬に取り立てた。例えば、貸主本人ではなく、その妻子や後添いなどを武家屋敷に遣わして居座らせたり、お供行列に乱入させたりするなど、傍目に「みっともない」「恥ずかしい」行動を取らせたのである。

そうした光景があちこちで多く見られるようになったことに憂慮した忠相や諏訪は、町人の態度は無礼である。もしも侍に男女問わず、借金返済を強引に迫った場合は捕縛される。そしてそれが無宿者であれば牢屋に入れるべきであると、老中に上申した。

しかし老中らは、忠相たちの訴えを却下した。そのかわり、改めて、物価引き下げ、そして米価引き上げのための施策をとることとした。

米価が低いのは、米が過剰に出回っているためだ。それならば、市場に流通する米を減らせばいいということで、幕府は1729(享保14)年、米相場会所の設置や米問屋の区分に加え、積極的に米の買上、そして買い上げた米の備蓄を行った。

更に幕府は、上方から船で江戸に入ってくる「入津米(にゅうしんまい)」が米問屋以外の者たちも取り扱っていることも問題であるとして、その取り扱いを幕府指定の8軒の米問屋のみにするよう命じた。その米問屋の筆頭が、先に登場した、高間伝兵衛だったのだ。

そんな中、享保の大飢饉で米の値段が高騰

伝兵衛は1731(享保16)年6月に、幕府の「米方(こめかた)役人」として大坂に遣わされ、大坂御金蔵(おかねぐら、現・大阪市中央区大阪城)の、金6万8500両、銀3631貫あまりを「軍資金」として米穀の買い入れを行った。そのおかげで、春先には米100俵(35石)あたり18両だったものが、翌年の春には26両、夏になると32両と上昇した。

実は伝兵衛の行動は、幕府の買上米政策担当でもあった忠相の指示によるものだった。また忠相は同年4月、後々中止になったとはいえ、「20万石以上の大名には、いずれ強制的な買米命令が出される」というお触れが出た際、その「問い合わせ先」の筆頭に名前を連ねてもいた。

米を高値に保つ施策は、確かにうまくいった。しかし、1732(享保17)年の秋に、西日本一帯が大凶作となり、後にいう「享保の大飢饉」が発生した。餓死者は96万9900人にも及んだという。米価は「高値」を超え、高騰の一途を辿った。武士層にとっては「喜ばしい」ことであっても、ただでさえ逼迫していた江戸庶民の困窮は、ますます進んでいった。この年の12月20日に、人々は米価の引き下げを奉行所に訴え出た。しかし、当然、その訴えは却下された。翌年正月明けの17日、19日と訴えても却下され、事態はひどくなる一方だった。

伝兵衛の店への打ちこわしが発生した

そんな中、町人たちの間に、「高間伝兵衛が米を買い占めたから、米の値段が高騰した!」といううわさが蔓延し、伝兵衛だけが「悪者」にされてしまう。20日には、伝兵衛の身柄を引き渡すように、多数の町人が奉行所に押しかけた。

さすがに忠相らも不穏な空気を察知し、23日に「御救米(おすくいまい)」の支給を決定したものの、もはや焼け石に水。しかも26日に忠相は町人たちが求めた、伝兵衛の身柄引き渡しを再度拒絶した。その結果、その夜に伝兵衛の店への打ちこわしが発生したのだ。

人々は伝兵衛の家財の一切合切を破壊し、大事な帳簿類は近在の大川へと投げ込んた。不幸中の幸いで、その夜、伝兵衛一家は故郷の上総に里帰りしていたため、命は無事だった。

最終的に打ちこわしの首謀者たちは5月に流罪とされ、「決着」はついたのだが、冒頭に挙げた狂歌ではないが、1733(享保18)年当時の米価は、銭100文で米がたった1升2合しか買えない。20年後の1752(宝暦2)年であれば、銭100文で米が3升買えた。それゆえ、わずかな米で1日にたった1膳だけ、お粥を食べるのがやっとだという状況だったのだ。

それ以降も幕府の諸政策において、腐敗政治がはびこるなど、庶民にとってはいたたまれない状況が続いていた。それゆえ、忠相が「名奉行」で「あった」というよりもむしろ、「あって欲しい」というのが、江戸庶民の願いだった。その願いが昂じ、南蔵院の「しばられ地蔵」の由来と結びついた可能性がある。しかもこの話には実は、「元ネタ」がある。

それは、北宋時代の中国の政治家・包拯(ほう・じょう、999~1062)が行ったとされる裁判故事を集めた短編小説集、『龍圖公案(りゅうずこうあん)』(明代(1368~1644)末期に成立か)、通称『包公案(ほうこうあん)』第8巻74の「石碑」というものだ。

元ネタの「包公案(ほうこうあん) 第8巻74 石碑」とは

浙江杭州府仁和県に柴勝(さい・しょう)という男がいた。まじめな人物で、その妻も舅や姑によく仕えていた。柴勝はある時両親に、商売に出るように勧められる。柴勝は両親にもらったお金で布を仕入れ、開封府に行った。そこで呉子琛(ご・しちん)の旅籠に泊まった。なかなか布が売れず、3日目に柴勝が酒を飲んで寝ていたところ、旅籠の近所に住んでいる夏日酷(か・じつこく)という男が部屋に忍び込み、布を盗んだ。目が覚めて布がないことに驚いた柴勝は呉子琛に尋ねたが、自分は何も知らないという。そこで柴勝は、包公に訴え出ることにした。

包公も呉子琛を尋問したが、答えは同じ。罪を犯した証拠もない。包公は2人を収監した後、部下の者を町の守護神に参拝させた。しかし、何の音沙汰もない。3日経つが、どうにもできないと包公は2人を板で10回打ちすえ、放免した。その間、盗人の夏日酷は布の先端と末端につけてあった印を塗りつぶし、自分の印をつけ、徽州の行商人・汪成(おう・せい)に売りつけていたのだが、そのことに気づいた者は誰もいなかった。

2人がいなくなってから包公は、役所の前の石碑を運び込ませ、誰が布を盗んだかを聞き出すことにしたと宣言した。それを聞いて、多くの人々が役所に集まってきた。包公は「石碑よ、このろくでなし!」と、20回、部下に鞭打たせた。それからまた、別の訴状を持ってきて、また石碑を鞭打たせた。それを3度繰り返すと、ますます人だかりが物凄くなった。

頃合いを見計らって、包公は門を閉めさせた。そして、人だかりの中から4人を選び、「役所に無断で入ってくるとは不届きである!罪滅ぼしに、自分が商っているものを差し出せ!」と命じた。彼らはすぐに、品物を持ってきた。その中に、反物があった。

包公は再び、柴勝と呉子琛を呼び出し、反物を見せたところ、柴勝が、「自分の反物と、頭と尻の印は違うが、実は前もって、真ん中に目立たない印をつけていたんです。これは間違いなく自分のものです!そして私は、布の寸法も暗記しています」と言った。

それを受けて包公は、品物を差し出した4人を呼び出した。反物を持ってきていたのは、何と、汪成だった。汪成が言うには、反物を夏日酷から買ったという。包公は夏日酷を捕らえた。夏日酷は罪を認め、隠し持っていた他の布のことも白状した…

最後に…

「現実」を鑑みると、「石碑」の柴勝や、「しばられ地蔵」の手代のように、大切な物が盗まれてしまった際、それが偶然、ほとんど無傷の格好で見つかることは、なかなかないことだ。万一どこかで盗品が見つかったとしても、犯人がわからなかったりする場合もある。仮に勇気を出して「お上(かみ)」に訴えたとしても、「うるさい!黙れ!」と相手にされず、追い払われてしまう可能性も十分にある。そうした理不尽、割り切れない、心が晴れない「現実」が多いからこそ、公平に物事を裁き、なおかつ知略をもって悪だくみを暴く、包公や忠相が多くの人々に求められるのだろう。

包公に鞭打たれたという石碑の話、そして忠相に荒縄でぐるぐる巻きにされたというお地蔵さまの話が「真実」、それとも「嘘」であるか、その両方を追求することは、我々にとって、意味のあることではないだろう。だからこそ、包公や忠相が行ったとされる数々の名采配に心から感動し、そして我々の代わりに犠牲になって、辛い思いをした石碑やお地蔵さまに感謝し、謙虚な気持ちで頭を垂れることが、辛い「現実」を日々生きる我々に、大事なことなのではないか。

参考資料

■東京市本所區(編)『本所區史』1931年 東京市本所區
■島田筑波・河越青土『東京都社寺備考 寺院部 第1冊【天台宗之部】』1944年 北光書房
■麻生磯次『江戸文学と中国文学』1955年 三省堂出版
■東京都墨田区広報室(編)『史跡あちこち 第5集 すみだむかしばなし』1972年 東京都墨田区広報室
■入本英太郎・東京にふる里をつくる会(編)『東京ふる里文庫 14 葛飾区の歴史』1979年 名著出版
■矢田插雲『江戸から東京へ』第5巻 1981年 中央公論社
■東京都葛飾区(編)『増補 葛飾区史 下巻』1985年 東京都葛飾区
■根ヶ山徹「『龍圖公案』編纂の意圖」『中国文学論集』第14号 1985年(110-141頁)九州大学中国文学会
■佐藤義勝(版画)・加太こうじ(著)『葛飾の自然・風物詩 葛飾百景』1985年 葛飾文化の会
■荘司格一『中国の名裁判 −公案小説』1988年 高文堂出版社
■荘司格一『中国の公案小説』1988年 研文出版
■本山桂川(著)・奥村寛純(増補)『新編 日本地蔵辞典』1989年 村田書店
■駒田信二(訳)『棠陰比事』1985/1992年 岩波書店
■松本四郎「高間伝兵衛」下中弘(編)『日本史大事典』第4巻 1993年(654頁)平凡社
■阿部泰記「『包公案』における亡靈裁判について −『夜判陰』の意義の變容をめぐって−」財團法人東方學會(編)『東方學』第93號 1997年(59-71頁)財團法人東方學會(刊)
■石川純一郎「地蔵信仰」福田アジオ・神田より子・新谷尚紀・中込睦子・湯川洋司・渡邊欣雄(編)『日本民俗大辞典 上』1999年(769-770頁)吉川弘文館
■阿部泰記「『包公案』の民間故事形式」山口大学文学会(編)『山口大學大學會志』第49巻 1999年(51-66頁) 山口大学文学会(刊)
■山田忠雄「享保・天明・慶応の打毀し」小木新造・陣内秀信・竹内誠・芳賀徹・前田愛・宮田登・吉原健一郎(編著)『江戸東京学事典 新装版』2003年(390-392頁)三省堂
■渋谷勲「しばられ地蔵」東京むかし話の会(編)『読みがたり東京のむかし話』1975/2004年(212-218頁)株式会社日本標準
■土肥鑑高「高間伝兵衛」竹内誠・深井雅海(編)『日本近世人名辞典』 2005年(558頁)吉川弘文館
■「寺院ルネッサンス 天台宗業平山南蔵院 縄とき供養にあわせて『結びだるま市』開催。伝統文化の発信で地域貢献」『仏事』2008年4月号(86-89頁)鎌倉書房
■渡浩一『民衆宗教を探る お地蔵さんの世界 −救いの説話・歴史・民俗−』2011年 慶友社
■山折哲雄(監修)横尾修(著)『江戸東京の寺社609を歩く 下町・東郊編』2011年 PHP研究所 
■下泉全暁『地蔵菩薩 地獄を救う路傍のほとけ』2015年 春秋社
■松本剣志郎「江戸最初の暴動を招いた町奉行 大岡忠相」大石学(編)『悪の歴史 日本編【下】』(184-199頁)清水書院
■『しばられ地蔵 業平山 南蔵院』 
■「龍圖公案:第74回 石碑」『中國哲學書電子化計劃』

ライター

鳥飼かおる(掲載日:2022/12/12)

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