日本人は清浄・清潔であることを好むことはよく知られている。日本人の精神的支柱である神道と仏教の視点から見ると、掃除とは神道的には神事であり、仏教的には功徳を積む善行でもある。その両方の視点から考えてみたい。
サッカーワールドカップの会場で掃除をした日本人
サッカーW杯会場で日本人が試合後に掃除をして帰ることに絶賛の声が集まっている。一方で大王製紙元会長が「掃除を褒められて喜ぶのは奴隷根性」と批判ツイートをして炎上した。これに対して放送作家・長谷川良品氏が日本人にとって掃除は奴隷根性どころか、衛生を超えた神事と捉えているのではないか。だから人目がなくても清掃を行う人が多いのだと持論を述べた。長谷川氏は「人生がときめく片づけの魔法」(近藤麻理恵/河出書房新社/2019)がシリーズ累計1100万部の大ベストセラーとなったのも、掃除という行為にモラルを超えたスピリチュアルな要素が介在するからだと指摘した。
Japan are making the #WorldCup cleaner for one last time
掃除は神事
長谷川氏の論説は日本人の宗教観を表していると思われる。日本人は世界一清潔な民族と呼ばれる。都市にゴミが落ちていないことに驚嘆する声があがることはしばしばである。先日、情報番組で外国人観光客のお土産人気1位が「古着」だった。日本の古着は清潔だというのがその理由でだった。しかし、いわゆる潔癖症とは趣きが違う。日本人の心性には「穢れ」を嫌い「 禊ぎ」「祓い」による清浄さを好む。「古事記」にある、伊邪那美命が黄泉の国の穢れを清浄な水で洗うと、天照大神・月読尊・素戔嗚尊の三神が生まれたという神話は、清潔、清浄の尊さを描いている。単に見た目を綺麗にすることが目的ではない。モノ(身体も含む)の清浄は心や魂も清浄にするという思想である。そして清浄な真っ白な心は神に通じるという。伊勢神道の根本経典のひとつ「倭姫命世記」「正直の頭に神宿る」とある。確かに日本人にとって掃除は神事なのかもしれない。
掃除の5つの功徳
長谷川氏の持論は掃除神事論で終わっている。確かに清浄を好む心性は日本古来の神道の教えに由来するところが大きいと思われる。他方、掃除は仏事でもあるのではないか。日本人のもうひとつの大きな精神的背景である仏教においても釈迦が「掃除の功徳」を説いたとされている。「掃除の功徳」は原始仏典では常套句化しており、内容には若干の差異が見られるが「根本説一切有部律」によると、以下の5つの功徳が示されている。
自己の心が清らかになる
他人の心が清らかになる
神仏の心が清らかになる
招集しうる善根を積む
肉体が滅んだ後、天界の諸神に生まれる
掃除をするだけで死後の不安も解決できるとてつもない功徳である。「陰徳を積む」という言葉もある。陰徳とは誰も見ていないところで行う善行によって心に積まれる徳のこと。誰も見ていなくても、する人はする。周利槃特の悟り
掃除の功徳を体現した人物に周利槃特(しゅりはんどく=チューダ・パンダカ)という釈迦の仏弟子の逸話がある。槃特は物覚えが悪く自分の名前すら覚えられない愚者だった。そのため名前を書いた名札を首にかけていたが、それすら忘れてしまったという。槃特は釈迦に周りの修行の邪魔になるので出て行くことを伝えた。釈迦は掃除好きの槃特に一本の箒を渡し、「わたしは塵をとり除く」「わたしは垢をとり除く」という句を授け、掃除の時に唱えるよう指示した。もちろん槃特はそれすら忘れてしまうので、何年も箒を持って「ちりを払わん あかを除かん」と唱えながら、来る日も来る日も掃除に打ち込んだ。やがてその姿に周りの仏弟子たちも槃特を尊敬するようになった。そして槃特は「ちりやあかとは、執着の心である」と気づき悟りを得たという。掃除の功徳は元々清浄を好む日本人とは相性が良かったことだろう。日本人にとって掃除は仏事でもあるといえる。
白装束
代表的な仏事といえば葬儀もまた聖なる儀式、仏事、そして神事である。近年は自然葬などの普及も進んでいるが、最も一般的な火葬による葬儀を行う際、ほぼすべての故人がシミひとつない清浄な白装束を纏って旅立つ。別に日本だけが故人の身だしなみを整えるわけではないが、海外では普段着であったり職業の制服だったりするようだ。死出の旅に際して清浄な純白に身を包んで臨む。神道では死は穢れとされている。白の装束を着せることの根底には禊ぎや祓いの意味があるのではないだろうか。同時に仏教では葬儀とは参列者が仏の教えに出会うための機会であるとしている。故人を清潔・清浄にして見送ることは、大きな功徳があるに違いない。それは掃除の功徳につうじる。葬儀には清浄・清潔の概念を通して神仏混淆の姿が見いだせるのである。
モラルを超えるもの
日本人における掃除には宗教的な意味がある。諸外国では掃除は掃除をする業者がするものであり、その仕事を奪うなといった合理的な批判もあった。また近年はモラルの低下も叫ばれている。しかし多くの日本人にとって掃除がモラルを超えたただの片付けではなく神事、仏事である以上、これからも人が見ていようがいまいが行われ、功徳を積んでいくに違いない。
参考資料
■長谷川良品「W杯でのゴミ拾いに批判!ホメられて喜ぶ奴隷根性」2022年 11月27日配信
■袴谷憲昭「仏教教団における研究と坐禅」『駒沢大学仏教学部研究紀要』第68巻 駒澤大学(2010)
■関稔「『愚かなパンタカ』伝承考(一)」『北海道駒澤大學研究紀要』第19巻 駒澤大学北海道教養部(1984)