日頃当たり前のように目にする赤十字マークと、近年見られるようになった「ヘルプマーク」について考える。これは病人や障害者など社会的な弱者に対する良心、国や宗教を超えた慈悲が問われる問題である。また同時に赤十字の精神には創立者の宗教性が存在することも確認したい。
椎名林檎のヘルプマーク騒動
椎名林檎のニューアルバムの特典グッズが「ヘルプマーク」に酷似していると騒動になった。「ヘルプマーク」は義足や精神的な障害など、外見からはわかりにくい疾患やハンデを背負っている人が援助や配慮を求める、東京都が制定した標章である。それと見間違えるような紛らわしいデザインは障害、疾患のあるひとに迷惑がかかる危険がある。この騒ぎを受け販売元は発売を延期する対応を取った。
精神疾患でマークを身に着けている筆者の知人は「積極的な助けは必要ではないが、認識はしておいて欲しい。何かあったら手を差し伸べてくれればといったニュアンスの控え目なサイン」だと話していた。そうした性質のためか行政の展開も地味で一般的に浸透しているとは言い難い。椎名を擁護する側からは過剰反応だとの声もある。しかし浸透していない現状において、紛らわしいマークが広がることで誤解を招くことの懸念はある。
ヘルプマークと赤十字マーク
「ヘルプマーク」は赤地に白十字に白のハートマーク。特典グッズのデザインは赤地に白十字、その下に林檎というもので、かなり似ている。「ヘルプマーク」の白十字は赤十字マークと類似している。赤十字マークは赤十字社など法律で定められた組織しか使うことができず、類似したマークも使用禁止である。赤十字に似ている「ヘルプマーク」は東京都が制定したものであり、その「ヘルプマーク」と似ているデザインを個人が考案、使用してはならないということになる。今回の騒動は明らかに椎名側に落ち度がある。
赤十字がなぜそこまで使用に制限をかけるのか。赤十字マークは戦場や紛争地帯で赤十字社が医療行為を行う際に掲げる、攻撃禁止の目印として使用されるからだ。しかし実際には無視されて攻撃を受けることも多々ある。赤十字の旗の下で医療行為に励む医師たちは命をかけて、敵を武力で制する戦争・紛争においても人間に残された良心に訴えているのである。赤十字マークが元になっていると考えられる「ヘルプマーク」にも同様の精神が宿っている。
アンリージュナンとキリスト教
赤十字社は戦争、紛争、災害などにおける救護活動を中心として多岐に渡る活動を行っている人道支援団体である。赤十字といえばフローレンス・ナイチンゲールを連想する人も多いかもしれないが、赤十字設立の立役者はスイスの実業家アンリー・デュナン(1828〜1910)である。デュナンは1828年スイス・ジュネーブで生まれた。いわゆる「イタリア統一戦争」の最中、デュナンはイタリア北部・ソルフェリーノの凄惨な現場を目の当たりにした。一旅行者に過ぎなかったにも関わらず、あまりの惨状に涙したデュナンは負傷者の救援活動を始めたという。その後デュナンは戦時において、敵・味方、国家、民族、宗教などから、完全に中立の立場を有する国際的救護活動団体の必要性と、その活動に対する攻撃の禁止などを訴えた。その思想を根幹として赤十字が1863年に創設。翌年傷病兵の救護などの医療、看護、衛生活動を保護する国際条約「ジュネーヴ条約」がヨーロッパで締結され、医療活動の中立の印として赤十字マークがが採用された。赤十字マークは諸説あるものの、デュナンの母国であるスイスの国旗を逆にしたものだとされている。
十字ということでキリスト教の影響下にあるようにも思えるが、赤十字社とキリスト教の間には、少なくとも公には直接の関係はない。宗教や国境を超えるべき赤十字の理念からすれば、背景にキリスト教云々とされるのは断じて認められないだろう。しかし、創設者のひとりであるデュナンは敬虔なプロテスタント系キリスト教徒(カルヴァン派)の両親の下で育ち、デュナンの思想にも大きな影響を与えたと思われる。実際デュナンはキリスト教活動にも尽力しており、 ロンドンで創設された「YMCA」(キリスト教青年会)をジュネーブで設立。彼が中心となり世界大会が開催されたほどである。
敵を滅ぼすことが当然の戦時における「中立」という概念は、当時としては画期的なものであった。戦場における「中立」の概念は新約聖書の「汝の敵を愛せよ」という言葉を実践しているといえる。十字軍や大航海時代などで教会自身が踏みにじっていた言葉である。デュナンの死傷者に向けた献身と涙が生んだ「中立」の思想と実践こそ、聖書の教えに真に沿ったものである。その意味で、赤十字の十字にイエス・キリストの慈悲の象徴である十字架を重ねても的外れとは言えないのではないだろうか。
歴史上様々な問題を孕んだキリスト教だが、出家して社会を超越することを説く仏教や死をケガレとして避ける神道などに比べ、戦争や貧困などの社会問題へのアプローチは優れたものがある。その教えは敬虔なクリスチャンだったデュナンの精神が創立した、赤十字の精神に内在していると考えてもよいと思われる。
学び、知る機会
「ヘルプマーク」酷似疑惑に対する批判は避けられない。行き過ぎだとの指摘もあるが、マークの使用者にとっては時に生死に関わる問題である。社会的弱者は周囲の慈悲にすがらないわけにはいかない。他方、この騒動でマークの知名度が上がったとも言える。これを機会にマークの元となった赤十字の歴史や精神、そこに内在するキリスト教の教えが知られるようになれば意味はあったかもしれない。
参考資料
■「椎名林檎さん CDの特典グッズ改訂へ“ヘルプマークに酷似”」NHK NEWS WEB 2022年 10月18日 15時37分配信
■古澤有峰「赤十字思想と宗教性論争」再考 : 医療・宗教・スピリチュアリティの射程」『東京大学宗教学年報』第22号 東京大学文学部宗教学研究室(2005)
■井上忠男「人道とアイデンティティ戦争 宗教の壁を超える赤十字の視点から」『国際哲学研究』第6号 東洋大学国際哲学研究センター(2017)