現代において「宗教」という言葉は「宗教っぽい」「宗教みたいで気持ち悪い」など、ネガティブな形容詞として使うことが多く、あまり良いイメージを持っていない印象を受ける。これに対し、初詣やお宮参り、葬儀法事に至る伝統的な「宗教行為」については当然のように受け入れている。この二元性が安倍元首相の国葬をめぐる態度にも透けて見えた。日本人にとって宗教とは何か。
賛否を呼んだ国葬
9月27日凶弾に倒れた安倍晋三元首相の国葬が営まれた。国葬をめぐっては世論が賛否に分かれ、反対派のデモは激しさを増していた。マスコミ各社の世論調査でも、当初は賛成が上回っていたが日が経つに連れて、反対の声が多くなりついには逆転した。生前の評価が定まるのは後世のことであるとしても、憲政史上最長にして、思想そのものははっきりしていて敵味方が明確に分かれた総理大臣だった。とはいえ、日本は民主主義国家である。長きに渡り安倍一強時代を築けたのは、支持者の数が批判者を上回っていたからだろう。国葬賛成の声が多かったのも当然である。それが逆転したのは、元々リベラル傾向の強いマスコミの反対を煽るような報道姿勢に流された人も多いと思われる。しかしその報道も根拠が無いわけではない。それが元首相と某宗教団体との関わりである。
ブームとなった「霊感商法」
信条・思想の自由が保障されている以上、政治家がどの宗教の信者であっても政教分離に抵触しない限り問題ではない(場合によってイメージダウンにはなるかもしれないが)。問題はこの宗教団体が反社会的行為を行っている疑惑を持たれていることである。この団体はいわゆる「霊感商法」の元締として80〜90年代頃に大きく取り上げられた。高額な壺や印鑑などを売りつけ、布施と称して信者の財産を吸い上げる手口や、有名芸能人と一般信者との「合同結婚式」などが連日報道され、世間では負の大ブームとなった。現代でも怪しげな宗教が話題になると「壺とか売るやつでしょ」などとネタにされるほどである。しかしそのブームも後のオウム事件などの影に隠れ、芸能人を巻き込むなどのワイドショー的な話題も尽きたことから、マスコミの興味を失い沈静化した。しかしあくまでマスコミが飽きたというだけで被害者が減ったわけではない。元首相を狙撃した容疑者の男も、この団体の信者である母親が家の財産をすべて献金してしまい困窮し人生を変えられたという。団体の指導者を殺害するつもりだったが果たせず、関係があったとされる元首相に凶行に及んだとしている。若年層を除けば一大ブームとなった「あの」霊感商法団体の記憶が蘇ったことだろう。元首相もその団体と深い関係があったとなれば評価は一変する。与党のみならず野党にも関係が指摘される議員が公表されるなど過熱気味な報道に、元首相を国をあげて見送ることに抵抗を持つようになった人が増えてきた。この団体のカルト的反社会性を考えれば当然の反応ではあった。
死者を悼む人々
テレビなどの報道をみる限りではどちらかといえば反対の声が多く感じられたように思えた。しかし当日になってみれば、一般献花には長蛇の列。規定の時間が過ぎてもなお途切れることはなかった。また、当地に行けない人たちのための「デジタル献花」が有志によって立ち上げられ520,429人の弔意が寄せられた。元首相の人気を考えれば多少の数が反対に転んでもさしたる影響はなかったのかもしれない。しかしそれ以上に、教団との関係はどうあれ、「人は死ねばホトケ」であり、死者を悼む、死者を弔うという日本人の宗教的な心性の要素もあったのではないか。国葬の案内状をSNSで晒した一部の人物に対して品位が無いとの批判が集まった。賛否とは別に「死」にまつわる儀礼を見世物のように扱う行為は、宗教的な感性に反するものだったことは間違いない。
「宗教」と「宗教的」
日本人はよく無宗教と言われる。〇〇教といった特定の信仰を明言する人は非常に少ない。聞かれれば「仏教」と答える人は多いだろう。古くからの家は大抵どこかしらの檀家である。しかし自宅の宗派まで正確に答えられる人はどれほどいるだろうか。
「宗教のようだ」「何か宗教やってる?」などという言い回しには言外に「(怪しげな)宗教」いわゆる「カルト」の意味合いを含む場合が多い。日本人はいわゆるカルト教団ではなくても「教祖」「教典」「信者」などから成る具体的組織的な「創唱宗教」自体に抵抗があるようだ。特定の「〇〇教」と言われるとネガティブなイメージを持つのが一般的かもしれない。キリスト教の布教も失敗に終わった。
その一方で初詣、お宮参り、七五三、葬儀、法事とまぎれもない宗教行為が生活に浸透している。クリスマスやハロウィンも抵抗なく受け入れる。これらを見ても日本人は無宗教どころか「宗教的」な民族である。この宗教行為は自然発生的な「自然宗教」的行為といえる。日本人にとって宗教とは「組織」「団体」ではなく「想い」や「行為」そのものなのかもしれない。キリスト教と同じ創唱宗教である仏教は日本古来の自然宗教、神道との「神仏習合」により習俗化したことで、キリスト教とは対照的に浸透したのである。
今回の国葬についても反対の声が目立ちながらも、元首相への哀悼の意を示す人々の数はそれを上回る勢いだった。それはまぎれもない宗教行為であり、イギリスのように特定の宗教が前面に出ていなくても、日本人の宗教的な面が現れているように思えた。
自然な宗教心
日本人は特定の「宗教」に対してはネガティブなイメージを持ちつつ、死者を悼み死者を弔うという見えない形の「宗教的」な心性が根付いている。阿満利麿は、こうした日本人の曖昧な宗教観に主体性の欠如を見出だせると批判的に考察している。しかし「死」や「死者」に自然と頭を垂れる畏敬の念が、特定の宗教の教義に固定されることなく、宗教心として根付いていることは、むしろ美徳とも言えるのではないだろうか。
参考資料
■阿満利麿「日本精神史: 自然宗教の逆襲」筑摩書房(1996)
■ありがとう安倍元総理デジタル献花プロジェクト