僧侶といえば修行・荒行を連想する人は多いだろう。滝に打たれ、断食をし、途方も無い時間座禅を行う。そんなイメージがある。厳しい修行に耐え、心身共に浄化される。そのイメージが我々に、俗世に浸かったいわゆる「生臭坊主」に対して許すまじと憤慨させる。そもそもなぜ彼らは修行・荒行をするのか。
天台宗の修行 千日回峰行
日本仏教で最も知られている荒行が天台宗比叡山の「千日回峰行」である。7年間にわたり1000日間山林を歩き、挫折したときは自害する覚悟を決め、首をくくるための紐と短剣を携える。しかし最も過酷なのは700日目から行われる「堂入り」である。9日間寝るどころか、臥せることさえ許されず、座して真言を休みなく唱える。もちろん断食断水である。その肉体は7日も過ぎると死臭が漂うという。成就かさもなくば死か。生死のギリギリのラインを突破した満願者は生き仏として称えられる。
日蓮宗の修行 大荒行堂
日蓮宗の荒行もよく知られている。正中山法華経寺の「大荒行堂」では毎年11月から2月までの100日間、半年間修練を積む。読経三昧で喉が潰れ、荒むしろに正座し続ける足はあかぎれでひび割れ、雑菌が入りかかとが腫れる。こちらも死の危険すらあるという。
比叡山には他にも荒行があり、曹洞宗の総本山永平寺も厳格な戒律が知られている。いずれもその内容は凄まじい。我々のような凡人には及ばない境地であり、満行者には敬意を惜しまない、彼らはそれをもって何を得るのだろうか。
修業によって加持祈祷の資格を得る
修行者の目的は「加持祈祷」を行う資格を得ることである。日蓮宗における荒行の目的は「修法師」になることだ。日蓮宗には密教系に劣らない祈祷の修法が伝えられている。祈祷を行うには「修法師」の資格が必要で、荒行はそのために必須の修行である。千日回峰行の満願者も法力が宿るとされる。回峰行を2度成就した酒井雄哉師(1926〜2019)も加持祈祷を得意としており、臨終の際にあってもその場の人たちに加持祈祷を施したという。逆に祈祷の類を一切しない浄土真宗に荒行は無い。
つまり修行と祈祷は切り離せない関係といえる。仏教における修行とは祈祷を行い、何らかの形で効果を出せる「呪力」を身につけるためにほかならない。「呪力」を会得した者は「呪術師」である。元々日本においては仏教は呪術として受容された。僧侶は法力や霊力をもって不治の病を治し、災害を防ぐことを期待されたのである。
仏教は修行をどう見ているか
呪力を得るための荒行。しかし、それが仏教の本義かというと一概には言えない。釈迦は苦行林で苦行に励んだが、ついにこれを無意味と断じて苦行をやめた。そしてこの世の一切は空であるとの境地に達し、現世利益を期待する呪い(まじない)も否定した。その教えとは矛盾しないのか。原始仏教に近いとされるテーラワーダ仏教のスマナサーラ長老が「般若心経」を批判しているのは、心経の呪術性に対してである。
千日回峰行の満行を報じるネットニュースなどを見ると、荒行へ疑問の声も多い。荒行したからそれがどうしたのだと。確かに凄いことは凄いかもしれない。しかし大谷翔平や井上尚弥のような誰もが認める偉業かというとそれも違う。彼らの活躍は夢や希望を与える。ウクライナの五輪選手も国民に勇気を与えた。荒行を終えた僧侶は何をしてくれるのか。ただの自己満足ではないのか。
現代に生きる人々からすると術者が得たと称する「力」が、どれほどわれわれに益するものか疑問である。加持祈祷で本当に病気が治せるのだろうか。キリスト教の神父(牧師)や医者、カウンセラーになるのに滝に打たれる必要はない。
迷信扱いされる祈祷
日本の近代仏教では西欧文化の吸収・対応の必要性から、儀礼より信仰を重視する考えが盛んになり、加持祈祷や荒行などは形式的かつ古臭い迷信のようなものとされた。これらの潮流の中心となったのが、清沢満之(1863〜1903)の「精神主義」や、井上円了(1858〜1919)が創立した「哲学館」系の僧侶、学者らによる「新仏教運動」であった。こうした動きに加持祈祷の本家といえる真言宗なども近代化への対応を迫られたという。
しかし、21世紀の現代、浄土真宗以外のほぼすべての宗派で、祈祷が行われている。病気平癒、家内安全、学業成就、安産祈願…あらゆる現世利益を求めて今日も人々は神社仏閣に足を運ぶ。「呪力」を持つ僧侶の存在はやはり必要なのだろう。
彼らが会得した「力」は万人のために使うものだ。荒行は自分が悟りを開こうする自己満足ではなく、他者を救うための自己犠牲と言える。釈迦は悟りを得た当初、その教えを広めるつもりはなかった。衆生を救う力を得るために命がけの荒行に身を投じるのは、慈悲行を重んじる大乗仏教ならではといえるかもしれない。
救いを求める人のために
修行・荒行とは現代的な価値観から見れば、あるいは無意味に近いことを命懸けで挑んでいるようにも思える。しかし、救われたい人がいるならそれに応えてあげたいという思い。衆生を救いたいという思いで苦行に飛び込むことは尊敬に値するべきだろう。一方で、町田宗鳳は満行者の自我膨張の危険を警告している。つまり荒行を達成した者の傲慢である。厳しい荒行に耐えた自分を忘れて「生臭坊主」に成り下がる僧侶は多い。彼らにはいつまでも荒行の記憶を忘れず、悩める衆生のために尽力して頂きたい。
参考資料
■新アジア仏教史 第15巻 日本Ⅴ「現代仏教の可能性」佼成出版社(2019)
■阿部貴子「真言僧侶たちの近代」『現代密教』第23号 智山伝法院(2012)
■菅沼晃「新仏教運動と哲学館―境野黄洋と高嶋米峰を中心に」『印度學仏教學研究』49巻 1号 日本印度学仏教学会(2000)