長野県上田市別所(べっしょ)温泉に所在する天台宗の名刹・常楽寺(じょうらくじ)の参道の入り口に、「将軍塚」または、「維茂(これもち)塚」とも呼ばれている塚がある。立て札によると、塚そのものは、古墳時代中期につくられた、高さ3mあまり、周囲10mあまりの中型円墳で、土地の豪族を埋葬したものだという。そしてその古墳の上に、鎌倉時代のものと推定される高さ2.7mほどの、古びた多宝塔が立っている。
平維茂と鬼女との戦いは紅葉狩りという題目で歌舞伎化された
ここで顕彰された、または葬られたとされる「将軍」または「維茂」とは、平安時代中期の10世紀後半に活躍した伝説的な武将、平維茂(生没年不詳)のことだ。維茂は武勇に優れていたばかりではなく、『法華経』8軸を毎日転読し、恵心僧都源信(えしんそうずげんしん、942~1017)に帰依していたことから、源信より「極楽迎接(こうしょう)曼荼羅一鋪」を贈られたほど、信心深い人物だったとされる。その維茂が倒したという鬼女にまつわる伝説がこの地に残っており、後にそれが室町時代の能作者・観世小次郎(かんぜこじろう、1435~1516)によって、「紅葉狩(もみじがり)」という題名で謡曲がつくられた。そしてそれは歌舞伎化され、今日でも有名な題目となっている。
鬼女とは
日本語において昔から長らく、「鬼女(きじょ/おにおんな)」という言葉(名詞)はあっても、「鬼男(きだん/おにおとこ)」という言葉は存在しなかった。もちろん、「残酷さ」「意地悪さ」の比喩として、「鬼のような男」と表現されることはあるが…何故そうなのか。それは諸悪の根源とされる「鬼」は男であることが「当たり前」で、女が世の男たちを圧倒し、時に人の命を奪う「鬼」そのもの、または「鬼のような女」になるのは「例外」「よほどのこと」と考えられてきたからだろう。
そのように「当たり前」ではない「鬼女」は言うまでもなく、異常な存在である。それゆえ、「英雄」に「成敗」されるべき、恐るべき敵。果ては人間ではない、得体の知れない妖怪変化のたぐいととらえられてきた。「鬼女」の怖さそのもの、または普通の女性が「鬼」になるに至るまでのエピソードが民話や伝説、物語の中心になる場合もあれば、逆に、「鬼女」が人々に恐怖を与えるような悪辣非道な振る舞いをなしていたが、苦難の果てにそれを倒すことができたとして、主人公である英雄の力強さや勇猛さはもちろんのこと、知略の巧みさ、存在そのもののカリスマ性を際立たせる役割を果たすこともあった。
鬼女・紅葉の生い立ちを調べてみた
平維茂が倒したという鬼女・紅葉(もみじ)だが、明治19(1886)年に出版された『北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之伝(きたむきやまれいげんきとがくしやまきじょもみじたいじのでん)』によると、紅葉の幼名は呉羽(くれは)。承平7(937)年、父・伴笹丸(とものささまる)、母・菊世の間に奥州会津(現・福島県福島市)で生まれた。
父方の先祖は、貞観8(866)年、政(まつりごと)がなされていた大内裏(だいだいり)の内側にあった応天門(おうてんもん)炎上の罪で伊豆に流された、大納言の伴善男(とものよしお)だった。笹丸・菊世夫婦はなかなか子宝に恵まれなかったことから、また、本来であれば都で高位にあった先祖が政争に負けて、流刑の地で不遇のまま生涯を閉じる羽目になったことに関して、「世を恨む」気持ちもあったのか。よりによって、仏道修行を妨げ、人の心を悪へ誘惑する魔王である、第六天魔王波旬(はじゅん)に祈願した。そこで生まれたのが呉羽だった。呉羽は美貌を備え、音曲(おんぎょく)の技芸にすぐれていたものの、心は「鬼」そのものだった。ある時、自分を恋い慕う村の豪農の青年から、結婚の支度金として100両もの大金をだまし取った。そしてそれを「軍資金」に親子3人は天暦6(952)年、妖術で生み出した自身の身代わりを残し、京に上った。
鬼であることを見破られ追われてしまった紅葉
「心機一転」ということなのか、家族はおのおの、父は伍輔(ごすけ)、母は花田、呉羽は紅葉と名前を改め、今で言うメインストリートの四条通に小間物屋を開いた。そこで紅葉は琴を教えていたのだが、巧みな演奏と美貌が評判となり、清和(せいわ)天皇(850~881)の第六皇子・貞純(さだずみ)親王(873?~916)の子、源経基(つねもと、916~961)に仕えることになった。経基の寵愛を受けて懐妊した紅葉は、御台所(みだいどころ、正妻)が疎ましくなり、術を使ってその座を奪おうと企てた。しかしそれが比叡山の高僧に見破られてしまい、天歴10(956)年、紅葉一家は信濃國戸隠山(現・長野県長野市)に追われてしまった。
平維茂を筆頭に鬼女討伐隊が立ち上がった
ここで終わる紅葉一家ではなかった。紅葉は男子を出産し、経基の「経」を取って「経若丸」と名づけ、村人たちに対して、「自分は源経基に仕えていた女房だったが、経基に寵愛されていたため御台所から嫉妬され、無実の罪でこちらに流された」と称し、「経若丸が成人した暁には、必ず京へ戻る」と豪語していた。そして近在の子どもたちに縫い物や算術・習字などの手習いを教えたり、加持祈祷を行って、病人治療をしたりしていた。それゆえ「生き神様」と人々の崇敬を得ていた紅葉だったが、「鬼」の本性ゆえに、紅葉は夜になると男装し、父母を手下に従え、金銀を奪うようになる。そうした中、悪名をとどろかせていた盗賊団の首領たちや、「七十人力」の鬼・おまんまでも配下にしつつ、都に戻るための軍資金獲得と勢力拡大を目指し、略奪行為を続けていた。彼らの「乱行」はとどまることを知らず、果ては、捕らえた村人の生き血をすすり、肉をあぶって食らうなどの酒食にふける状況に至ったことから、国守から冷泉天皇(950~1011)に報告されることとなる。そこで「鬼女」討伐のため、平維茂が信濃守に任命された。安和2(969)年7月、250余騎を従えた維茂は、出浦(いでうら)郷(現・長野県上田市)に向かった。先遣隊、後詰(あとづめ。先陣の後方に控える軍隊)はいずれも暴風雨や火の玉、洪水など、紅葉の妖術でものの見事に退けられていた。
鬼女と平維茂の死闘
そこで維茂は、天長2(825)年、慈覚大師円仁(えんにん、794~864)によって開山された霊場・北向(きたむき)観音堂に十七日間、参籠祈願した。その満願の夜、維茂の夢枕に白髪の老僧が現れて、維茂を雲に乗せ、紅葉一派の居場所を眼下に見せた。そして降魔(こうま、仏教で、悪魔を降伏させること)の剣を授けた。これを携え維茂軍は、紅葉一派がいる戸隠の岩屋に乗り込んだところ、ちょうど紅葉たちは酒宴を張っていた。紅葉は得意の妖術を使うが、それが一切効かない。愛息・経若丸も打たれてしまった。半狂乱の紅葉に向かって維茂が白羽の矢を放つと、矢は紅葉の右肩を射た。すると紅葉は鬼の正体を現し、空中に舞い上がった。そして火炎を吐いて維茂勢を攻撃したが、仏のご加護だろう。紅葉めがけて金色の光が差し、その衝撃で紅葉は大地に落下した。必死に抵抗した紅葉だったが、とうとう首を斬られてしまった。しかしその首は空高く舞い上がり、どこへともなく消え失せてしまった。そこで維茂らは紅葉の両腕を首桶に収め、深い穴の底に埋めた。挙兵から3ヶ月後の10月25日のことだった…
鬼女退治のその後
鬼女退治の伝説と関わりがあるのだろうか。北向観音堂に伝わる縁起によると、維茂は信濃守になった安和2(969)年に観音堂を修理し、更にその本坊である常楽寺(じょうらくじ)・長楽寺(ちょうらくじ)・安楽寺(あんらくじ)の「三楽寺(さんらくじ)」の四院六十坊を増築したと伝えられている。
また、維茂の墓所は「ここ」ばかりではなく、新潟県東蒲原(ひがしかんばら)郡阿賀町(あがちょう)に所在し、長徳元(995)年、維茂が建立したと伝えられる曹洞宗の平等寺(びょうどうじ)薬師堂内にあるとされ、会津藩初代藩主・保科正之(ほしなまさゆき、1611〜1673)によって、寛文8(1668)年に墓石が建てられている。それゆえ、別所温泉の「将軍塚」は、鬼女紅葉を倒したか否かはともかく、「ここ」で多大な貢献をなした維茂を顕彰するために祀られたものではないか。
鬼女の正体
ところで、維茂が倒した紅葉こと「鬼女」とは、そもそも「誰」だったのか。本当に「鬼女」らしく、自身の知恵や得意技を活かして子どもたちを啓蒙したり、妖術を用いて病気治癒などの「いいこと」をして、人々の警戒感を解き、安心・油断させてみたり、逆に疎ましい人間を死なせようとしたり、人々の財産を狙ったり、果ては生き血をすすり、肉を食らったりする、妖怪変化のように口から火を吹いたり、雨嵐を巻き起こしたりしたのだろうか。
紅葉が両親によって「〇〇神社」「〇〇観音」「〇〇地蔵」に祈った御利益ではなく、それらの神仏に「見切り」をつけ、「第六天魔王波旬」に呪いや怨念のように祈り、「言霊」ではないが、「先祖の仇を打ちたい」「一旗あげたい」野望を抱いていたであろう両親から産み出され、育てられた人物で、なおかつ天性の「女ボス」だったことは間違いないだろうが、果たして「普通の人間とは到底思えない」ほどの残虐非道なことを実際にやったのだろうか。時の天皇の耳に入り、紅葉一派は「討伐」しなければならないほどの強力な存在だったことは言うまでもないが、果たして実在の人物だったのか。それとも維茂が勇猛果敢だったのみならず、仏への信仰も篤い、「偉大な人物だった」ことを強調するために、必要以上に悪く語られているのか…今となっては、その「事実」「真実」を知る術はないが、今日もなお「生き続ける」紅葉伝説における紅葉の「悪辣さ」「ふてぶてしさ」は、「正義の味方」の源維茂と同様、またはそれ以上に、我々の心を妙に惹きつける。自分の人生においては、絶対関わりたくない人物ではあるものの、何故か忘れられない。紅葉のたたえる、独特な悪の魅力を否定することは、誰にもできない。
参考資料
■塚田正朋『県史シリーズ 20 長野県の歴史』1974年 山川出版社
■小林計一郎「鬼女紅葉」信濃毎日新聞社開発局出版部(編)『長野県百科事典 補訂版』1974/1981年(201頁) 信濃毎日新聞社
■ふるさと草子刊行会(編)『源氏伝説のふるさと:信州鬼無里の伝説』1985年 ふるさと草子刊行会
■矢島宏雄「生産力と政治的関係で強大化した 信濃の古墳と将軍塚」宝月圭吾・小林寛義・宮脇昌三(編)『長野県風土記』1986年(110頁)旺文社
■岡田清一「平維茂」国史大事典編集委員会(編)『国史大事典』八 1987年(904頁)吉川弘文館
■山田孝雄・山田忠雄・山田英雄・山田俊雄(校注)『日本古典文学大系 25 今昔物語集』1962/1988年 岩波書店
■関保男「平維茂」赤羽篤(他、編)『長野県歴史人物大辞典』1989年(406頁)郷土出版社
■福沢昭司「紅葉」赤羽篤(他、編)『長野県歴史人物大辞典』1989年(723頁)郷土出版社
■金田一京助・山田忠雄・柴田武・酒井憲二・倉持保男・山田明雄(編)『新明解国語辞典 第五版』1972/1974/1981/1989/1997/2002年 三省堂
■端戸信騎『私家版 鬼女紅葉伝説考』2007年 信濃毎日新聞社
■「12 貴族が流された国伊豆 〜承和の変と応天門の変〜(PDF)」静岡県立図書館『資料に学ぶ静岡県の歴史』2009年
■大島廣志(編)『やまかわうみ 別冊 野村純一 怪異伝承を読み解く』2016年 有限会社アーツアンドクラフツ
■藤沢衛彦『日本の伝説 中部・東海』2019年 河出書房新社
■小林一郎「長野市鬼無里の『鬼女紅葉』の史跡」『長野』第317号 2020年3号(冬)(31-37頁)長野郷土史研究会
■今井秀和「鬼女のゆくえ -鬼女説話の変容と仏教-」『蓮花寺佛教研究所紀要』第13号 2020年(216-247頁)蓮花寺佛教研究所
■八木透(監修)『日本の鬼図鑑』2021年 青幻舎
■「平等寺薬師堂」『阿賀町』2021年6月1日
■「こうしょうまんだら/迎接曼荼羅」『Web版 新纂浄土宗大辞典』
■『天台宗別格本山 北向観音・常楽寺』
■「塩田平の文化と歴史 解説 将軍塚」『上田市デジタルアーカイブポータルサイト』
■「別所温泉の観光案内」『信州最古の温泉 別所温泉』
■「歌舞伎演目案内 -紅葉狩―」『Kabuki Play Guide』
■「巻二十五第四話」『今昔物語集 現代語訳』
■「鬼女紅葉伝説」『鬼無里観光振興会』
■「北向観音堂」『信州STYLE』