「天国」とはキリスト教、イスラム教、などの一神教における神がおられる場所であり、本来は亡くなった人が行くところではない。しかし14世紀ごろから「キリスト教信者は死後天国へ行く」という考えが生まれ、現在では定着している。キリスト教の場合、信仰のある人のみが神のおられる天国に行くことができる。信仰のない者は天国に行くことはできず、地獄に行くとされている。イスラム教では生前の行いに寄って天国へ行くか地獄へ行くかが分かれる。なので、「天国」へ行きたいのであれば、生前からキリスト教かイスラム教の信者になり、善いことを行うことが必要だ。信者でなければ天国へはいけないのだ。
仏教では天国とは言わず極楽という
仏教の場合は「天国」とは言わない。「極楽」と言う。極楽はやはり生前の行いによって極楽か地獄かに分けられてしまうのだが、比較的緩い信仰で極楽に行けることができる。浄土宗の「南無阿弥陀仏」と唱えれば阿弥陀如来のおられる極楽浄土へ行ける、という考えである。
天国とは違い誰もが行ける極楽
極楽は誰もが行けるとされている。「極楽」という言葉は「極楽浄土」からきており、信者数の多い浄土教の阿弥陀信仰から来ている。数ある浄土のひとつに「極楽」がある、ということになる。観音菩薩がおられるところは補陀落浄土、釈迦如来は霊山浄土、大日如来は密厳浄土、薬師如来は瑠璃光浄土など。阿弥陀如来が西方極楽浄土におられるのに対し、薬師如来は東方瑠璃光浄土なので、西でも東でもどこかの浄土には行かれるのだが、浄土教の阿弥陀信仰が広まったため、今では一般的には浄土といえば、西方極楽浄土のことを指し、人が死んでから行くところは「極楽」とされる。
地獄は宗教に関係なく統一されている
なぜか、「地獄」は仏教に限らず、キリスト教もイスラム教も日本語としては「地獄」である。キリスト教では死後の刑罰の場所とされる。イスラム教では不信心者や悪行を働いた者が責められる場所とされる。仏教では生前に悪行を働いた者が死後に閻魔の裁きを受け、苦しみを受ける場所となっている。みな大体同じである。
地獄は仏教では生前の悪行の種類によって行く地獄が違う。地獄絵図に描かれるように、どれも苦しい世界なので、そこには行きたくないと考え、極楽に行けるようにみな熱心に念仏を唱えた。現在も葬儀の際、浄土宗でなくても「南無阿弥陀仏」を唱えることが多い。それだけ阿弥陀信仰が普及しているということなのだろう。
いずれにせよ、キリスト教徒でないならば、「極楽」へ行くと考えたほうが日本人の場合は自然だろう。なぜ「死んだら天国へ行く」という言葉が普通になってしまったのか、まったく不思議である。
黒澤明監督の「天国と地獄」
映画『天国と地獄』は1963(昭和38)年に公開された黒澤明監督の、数々の賞を受賞した有名な作品である。こちらも「天国」という言葉を使っている。黒澤明監督はキリスト教徒ではなかっただろうし、物語の犯人役もキリスト教徒ではなかったはずだ。しかし現代では「極楽」よりも「天国」という言葉の方が身近になっている。