陰陽師・安倍晴明が活躍した平安時代。人々は霊験を求めて密教や陰陽道の呪術的な力に目を向けた。そうした中、栄耀栄華を極めた大貴族が今生の最期を迎えて行った臨終行事は、極楽往生を願う浄土思想によるものだった。
御堂関白の臨終行事
平安期藤原摂関政治の頂点に君臨した「御堂関白」と称された藤原道長(966〜1027)は臨終の際、釈迦入滅と同じ北枕で極楽浄土があるとされる西の方向に向かって向かって横たわった。僧侶たちは読経し、自身も念仏を唱え往生したという。手には阿弥陀如来像に結ばれた五色の糸が握られていた。道長が臨終を迎えた法性寺は自身が建立した寺院で、敷地内には九体の阿弥陀如来像が祀られていた。阿弥陀像の手につながれた五色の糸にすがって往生を願う「臨終行事」と呼ばれる儀礼は平安時代後期に流行した。五色の意味は陰陽五行説、密教の五智如来(大日如来と四方仏)、釈迦の体の部位など諸説あるが、宗派を問わず尊ばれ、現代でも寺院の重要な行事の際には五色の幕が掛けられる。
なお五色の糸は善光寺の「御開帳」でもその名残りが見られる。善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来」は住職ですら見ることができない秘仏だが、身代わりとしてまったく同じ姿とされる「前立本尊」が7年に一度公開される。その際に「回向柱」という柱が立てられ白い布が結ばれている。この布は前立本尊の阿弥陀如来像から伸びる金糸につながっており、参拝者が「回向柱」に触れると如来との縁を結ばれるという。道長は死に際になって慌てて用意したわけでない。他の貴族が病や変異の際には密教の加持祈祷などを頼っていたのに対して、道長は浄土思想に傾倒していたのである。
道長と浄土思想
藤原道長は藤原氏の絶頂期に君臨した日本史上最高の貴族である。道長といえば、「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」と詠んだ望月の歌が有名だろう。稚拙な印象も受けるが、人臣を極め権力の頂点に立った男の素直な心情が表現されている。一方で道長は法華経を講じたり霊場を参詣するなど仏教に造詣の深い人物でもあった。その道長がなぜ浄土思想に傾倒したのだろうか。元々頑強な体質ではなく晩年は病に苦しんだ。しかしそれなら密教僧や陰陽師の祈祷がある。平安時代における祈祷やまじないは絶大な信頼があったはずである。密教を天台思想のおまけのような形で持ち込んだ最澄(767〜822)より、最新の真言密教を身につけた空海(774〜835 )が時の朝廷に重んじられたのは当然といえた。天皇をはじめ貴族は病に苦しむ時、密教の加持祈祷による治癒を期待した。また陰陽道も重用された。陰陽師は主に天文や暦を読みとく占術が仕事だったが、密教に劣らぬ呪術師でもあった。貴族の身の回りに変異が続けば陰陽師が鑑定し呪いを解いた。現代でも人気のある安倍晴明が法成寺にかけられた呪術を見破り道長を救ったという伝説がある(宇治拾遺物語)。密教にしろ陰陽道にしろ最新の科学・医学であった。しかし道長が最終的に自身の信仰として選んだのは浄土の教えだった。恵心僧都源信(942~1017)の「往生要集」を熟読し、念仏を毎日十万遍唱えたという。念仏を唱え極楽浄土を観相(イメージ)し往生を願う浄土思想は、複雑深遠な密教や陰陽道の体系に比べていかにも単純な夢物語である。道長は既に藤原氏の勢力は盤石であったとはいえ様々な政略謀略渦巻く中央政界においてここまでの栄耀栄華に至った。道長によって失脚した者は数知れない。政治家というリアリストだった道長が最新の科学に背を向けて、夢見る浄土思想を選んだ理由はなんだったのか。
「死」というリアル
道長の浄土思想への傾倒は視点を「死」という究極のリアルに移せば不思議ではない。道長は人は必ず死ぬというリアルから目をそらさなかったのではないだろうか。加持祈祷や呪術がどれほど霊験あらたかで難病を治癒させることができたとしても、死ぬまでの時間を多少延ばす程度である。未来のある若者ならともかく、平均寿命5、60歳程度の当時において壮年を迎えた者が多少生きながらえたにしても、結局数年後にはゴールが待っている。すべてを手に入れた道長の最後の望みは死後の道筋だった。病苦に苛まれた晩年だったが不老長生などに目を向けた様子もない。
中国浄土教の祖とされる曇鸞(476〜542?)は、当代一の医学者、科学者であり道教を極めた道士でもあった陶弘景(456〜536)に不老長生の秘訣「仙経」を学んだ。その後曇鸞は菩提流支三蔵(?〜527)を訪ね「仏教にはこれに勝る健康法がありますか」と問うた。菩提流支は地面に唾を吐き「その通りにやれば何年かは長生きできるかも知れない。しかし、迷っている者が多少長生きしてどうなるのだ」と応えたという。曇鸞は仙経を焼き捨て浄土の教えに帰依した。浄土思想は教義上、現実否定の厭世的な方向に向きがちな危険がある。しかし何をどう思おうと死は必ずやってくる。その意味ではどの宗派よりリアルな思想だったのである。
変わらぬリアルと極楽浄土
自身が建立した寺院と阿弥陀如来像。観相念仏と称名念仏。五色の糸、僧侶の読経。人臣を極めた大貴族ならではの極楽往生必勝の布陣である。もちろんこんなことは道長のような一部の人間にしかできない。浄土思想はこの後の鎌倉時代に法然、親鸞、一遍らによって、称名念仏のみの易行として昇華し万人を救った。念仏さえあれば臨終行事ができるようになったのである。
人は必ず死ぬ。これが道長のリアルである。法成寺も道長の死後30年と経たずに焼失した。極楽浄土は最新科学が届かない彼方に存在する。このリアルは1000年後の今も変わっていない。
参考資料
■三橋正「藤原道長と仏教」『駒澤短期大學佛教論集駒澤短期大學佛教論集』第4号 駒澤短期大学仏教科(1998)
■山中 裕「藤原道長」 (人物叢書)吉川弘文館(2007)
■塚本善隆・梅原猛「仏教の思想 8 不安と欣求 中国浄土」角川文庫ソフィア(1997)