民俗学者の小松和彦(1947〜)は『「伝説」はなぜ生まれたか』(2013年)の冒頭で、「伝説は植物のように、特定の地域で、特定の場所や事物や人物にからめて語られている。したがって、その話をそのまま別の場所に容易には移植できない」と語っている。特定の「地域」において、ある「事物」、そしてそれに登場する「人物」について「語られる」。言うまでもなく、「よそ」では決して「語られない」ために「耳にしない」。それゆえにその「地域」の地理・歴史・文化、そしてそこで暮らす人々を物語る伝説や民話は、日本国内はもちろんのこと、世界中の至るところで多く見られる。それらは日本においては、例えば「桃太郎」「浦島太郎」…など、特定の「地域」を超え、国民的に有名な「人物」の話もあれば、それとは全く逆に、地域においても、伝説そのものが一部の古老にしか記憶されていないものもある。
隠れキリシタンによって建てられた可能性が高い伊東マンショの墓
福岡県中央部の西寄りに位置する筑紫野市の山家(やまえ)に、「伊東マンショの墓」とされるお墓がある。山家地区の中心部に山家宝満宮(ほうまんぐう)が鎮座している。その裏山に、かつて「道徳(どうとく)」と呼ばれていたこの地域の旧家・満生(まんしょう)家の墓所があり、そこに首がない地蔵が祀られているのだが、胸に天使の羽が刻まれているという。それは、筑紫野市から南に下った久留米市山川神代(やまかわくましろ)の安国寺(あんこくじ)内に所在する「マリア地蔵」によく似ており、いわゆる「隠れキリシタン」が建てた墓であると推察されている。
マンショという名前の由来とは
そして山家地域に多い「満生」という苗字は、1582(天正10)年2月の「天正遣欧使節」において、豊後のキリシタン大名・大友義鎮(よししげ、宗麟。1530〜1587)の名代として、12歳で長崎を出発し、ポルトガル〜スペイン〜イタリアなど、ヨーロッパのカトリック国を訪問した伊東マンショ(満所。日本名は不明。祐益(すけます)とも。1570〜1612)の「マンショ」、または満生家の家伝書によると、伊東マンショとは従兄弟同士になる、日向国(現・宮崎県)の戦国武将でキリシタンだった伊東義賢(1567〜1593)が1587(天正15)年のキリシタン追放令以降に始まった、弾圧の難を逃れるために出奔し、落人同様の身だったものの、安住の地を山家宿に見い出した。そこで「伊東」から、洗礼名Mancioの「満生(まんしょ)」に姓を改め、現存していないが、表向きは仏教寺院の「普門寺」を建て、自らが教主となって余生を過ごした。また時が経ち、満生の「まんしょ」が「まんしょう」となった、という話も伝わっている。
長崎だけでなく福岡の山家もキリシタン交流の場だった可能性は高い
「墓」を含めた「キリシタン」といえば「福岡県」ではなく、国宝であり、2018(平成30)年には世界遺産にも選ばれた大浦(おおうら)天主堂が所在する「長崎県」と思われがちであるが、かつて山家地区は、江戸時代に、出島(でじま)における唯一の外交の窓口であった長崎と江戸を結んだ、旧長崎街道の筑前六宿(黒崎・木屋瀬(こやのせ)・飯塚・内野・山家・原田(はるだ))の一宿だった。しかも山家宿は長崎街道ばかりでなく、現在の大分県に通じる日田(ひた)街道、そして現在の鹿児島県に通じる薩摩(さつま)街道が交差する「場所」でもあったことから、江戸幕府の役人たちが毎年の交代時や、九州東部を除く諸大名が参勤交代の折には必ず立ち寄る、いわゆる交通の要衝でもあった。そのように多くの人が行き交う地域でもあったことから、山家を訪れた「キリシタン」がいても、不思議ではなかった。
伊東マンショの墓に眠る人物は伊東マンショでも伊東義賢でもない
伝説の主人公である「伊東マンショ」は1590(天正18)年7月、日本に帰国。翌年に聚楽第(じゅらくだい)で天下統一を果たした豊臣秀吉(1537〜1598)と謁見し、自らの体験談を語り、洋楽器を演奏した。その後、イエズス会に入会したマンショは天草(現・熊本県)の修練院を経て、1601(慶長6)年にマカオに渡り、神学を3年間学んだ。司祭となってからは、主に豊前国の小倉(現・北九州市)を中心に宣教活動を続けていたが、長崎で病死した。43歳だった。
そして洗礼名はマンショではなく、バルテルミー(Barthelemy)だった「伊東義賢」であれば、いわゆる「朝鮮出兵」の文禄の役(1592〜1593)に出兵したものの、帰りの船の中で26歳の若さで病没、または家督争いの果てに謀殺されたという。
こうしたことから、山家に流れ着き、「隠れキリシタン」として一生を全うした人物が、「伊東マンショ」或いは「伊東義賢」その人だったとは考えにくい。可能性としては、伊東一族内のキリシタンだった人物か、または聖職者としてキリストの教えを説いていたマンショに強く感化されたことから、彼の死後に、自ら「マンショ」を称した信徒または聖職者のひとりだったのではないだろうか。
伊東マンショの墓がキリシタンの墓であることは間違いなさそうだが
いずれにしても、小松和夫が指摘するように、かつて宿場町として大いに栄えた山家宿という「場所」だったからこそ、「キリシタン寺」の普門寺を興した「伊東マンショ」を称する人物が亡くなってから、「キリシタン墓」の「マリア地蔵」。その人物を源とする、「満生」という苗字。今となっては消えてしまっているが、「小字普門寺」や「小字道徳」といった、「キリスト教の香り」が濃厚な地名…が存在するのだ。
秀吉のキリシタン追放令だが、お膝元の畿内(現・近畿地方)では宣教活動が縮小を余儀なくされたり、その他の地域でも、確かに「迫害」がなされたりしていたものの、1614(慶長19)年の徳川幕府による禁教令ほど、信徒や海外からの宣教師の追放・捕縛・処刑、そして教会の破壊などが行われるほど苛烈なものではなかった。それゆえ「キリシタン」は、日本中の至るところに存在していた。それを鑑みると、伝説そのものが現在の福岡県であっても山家宿ではなく、別の「場所」だったり、キリシタンの「本場」である長崎や天草、京都や大坂(現・大阪府)を舞台としていたなら、主役となる人物、そしてその名残とも言える「墓」や「苗字」や「地名」も当然、全く異なるものになっていたはずである。
伝説が嘘か本当かはさておき
今回紹介した筑紫野市山家の「伊東マンショの墓」の伝説に限らず、「伝説」の解釈に関して小松は、「近代歴史学的な意味での歴史からは歴史とみなされないような内容であっても、人びとが抱く『歴史』を読み解くことであり、そこから彼らが生きてきた土地の文化、はたまた心の有り様がかいま見えてくる」と述べる。「歴史的常識」から考えたら、「伊東マンショ」や「伊東義賢」の墓所である可能性は極めて低いのだが、もしかしたら、彼らが実際に、宿場町ならではの活気と喧騒に満ちていた山家に流れ着き、キリスト教信仰を終生守り抜いていたのかも知れない…いろいろなことを我々が思い巡らすことで、「伊東マンショの墓」にまつわる伝説に、今再び、新たな命が吹き込まれる。
参考資料
■近藤義夫(思川)『筑前山家今昔』1959年 郷土詩史思川叢書編輯所
■竹村覚『キリシタン遺物の研究』1964年 開文社
■近藤思川『筑前六宿 山家風土記 −長崎街道筋−』1965/2012年 思川郷土文学刊行処
■岡田章雄「伊東マンショ」國史大辞典編集委員会(編)『國史大辞典』第1巻 1979/1990年(710頁)吉川弘文館
■松田毅一「天正遣欧使節」國史大辞典編集委員会(編)『國史大辞典』第9巻 1988/1991年(964-965頁)吉川弘文館
■永井哲雄「伊東氏」株式会社オメガ社(編)『地方別 日本の名族 12 九州 2』1989年(41-77頁)新人物往来社
■岸野久「伊東マンショ」下中弘(編)『日本史大辞典 第1巻』1992年(531頁)平凡社
■五野井隆史「天正遣欧使節」下中弘(編)『日本史大辞典 第4巻』1993年(1218-1219頁)平凡社
■丸山雍成「長崎路」下中弘(編)『日本史大辞典 第5巻』1993年(329-330頁)平凡社
■筑紫野市教育委員会(編)『筑紫野市文化財調査報告書 第54集 満生文書目録(一)』1997年 筑紫野市教育委員会
■筑紫野市史編さん委員会(編)『筑紫野市史 民俗編』1999年 筑紫野市
■紙谷威広「隠れキリシタン」福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄(編)『日本民俗大辞典 上』1999年(329-330頁)吉川弘文館
■「ちくし野散歩 怪力の御笠森久平(PDF)」『筑紫野市教育委員会』2000年3月31日
■有限会社平凡社地方資料センター(編)『日本歴史地名大系 第41巻 福岡県の地名』2004年 平凡社
■小松和彦『「伝説」はなぜ生まれたか』2013年 角川学芸出版
■伊藤慎二「考古学からみた筑後今村キリシタン」西南学院大学学術研究所(編)『西南学院大学国際文化論集』第29巻 2015年(71-97頁)西南学院大学学術研究所
■筑紫野市歴史博物館(編)『ちくしの博覧会 指定文化財からたどる筑紫野市の歴史と文化』2016年 筑紫野市歴史博物館
■渡辺京二『バテレンの世紀』2017年 新潮社
■中園成生『かくれキリシタンの起源 −信仰と信者の実相−』2018年 弦書房
■「西都太宰府 西都史跡名所案内 山家宝満宮」『九州国立博物館』