人生は理不尽の連続である。自分なりに善く生きているつもりでも不幸は容赦なく襲ってくる。なぜ人は苦しまなければならないのか。まして善人・義人とも呼ばれていながらも報われないのはなぜか。旧約聖書の「ヨブ記」はその答えが示されて…いない物語である。
天界の賭け事で標的にされたヨブ
ヨブ記は旧約聖書の物語でも異彩を放っている。イスラエルの歴史物語である旧約聖書の中で、イスラエル人でもないヨブなる人物が実に理不尽な理由で次々と不幸に襲われるという物語である。
ヨブという人物がいた。彼は誠実で善良な人で10人の子供に恵まれ幸せに暮らしていた。場面は天界に移り、神が御使いにヨブの敬虔深さを称えていた。神は創造主なのだから全ては自分の作品である。その中でもヨブは最高傑作だと自慢していたのであった。その時サタンが現れ疑問を投げかけた。サタンはヨブが敬虔でいるのは神がヨブの善行に報いを与えているからだと。つまりヨブは神そのものに感謝しているというより、その対価に感謝している。そのような対価がなくても、むしろ苦しみしか与えられなくても敬虔でいられますかと。神はこの不遜な挑発に乗り、サタンにヨブの命を奪う以外のあらゆる災厄をヨブに与えてよいとの許可を出した。ヨブに敬虔であるが故に、神とサタンの理不尽な賭け事に巻き込まれてしまったのである。
誠実で善良なヨブに訪れた理不尽や苦難
ヨブは農園と子供を失い、皮膚病を患い大いに苦しんだ。酷い話である。まさに天国から地獄。死んだ方がマシだと思えるあまりの運命にヨブの妻は「神を呪って死になさい」と夫に叫んだ。しかしヨブは信仰を捨てなかった。そこに3人の友人がヨブを訪れる。友人たちはヨブが災厄を蒙ったのは、ヨブが神を怒らせることを何かやったのではないかと彼を問い詰めた。神は正義である。神は正しき理を以てこの世を治めている。ヨブが不幸になるのは神ではなくヨブが悪いのだ。ヨブは自分は何も悪いことはしてないと反論する。ヨブほどの敬虔な信仰者なら問われるまでもなく自問自答したはずだ。神よ私が何か罪や過ちを犯しましたかと。神自身が最高傑作と認めるヨブである。思い当たることなど何もなかった。それでも友人たちはヨブを問い詰める。ヨブも含めて彼らには神は絶対的な正義であるという前提がある。ヨブ本人も心当たりがあれぱむしろどれほど救われただろう。しかし無いのだ。何も無い。ひたすら神を信じ神に祈り真面目に生きてきただけである。
ヨブの問いに神は沈黙した
友人に反論しているうちにヨブが抱える理不尽は神に向かう。ヨブは神を告発した。ここへ来て語ってくれと。そして神はついにヨブに応答した。しかし神は苦しみの原因について述べることはなく、逆にヨブを質問攻めにする。神は人間には到底計り知れない宇宙の理を説き、人間が知れることなど宇宙全体の極一部に過ぎない。お前ごときに神の意思がわかるものか分を弁えよと叱り飛ばした。神からすればヨブの葛藤も友人たちの問いも、人間が知れる狭い世界の中でしかない。結局ヨブは神の偉大さと自らの矮小を自覚し神にひれ伏した。その後ヨブの病は完治し、新たに10人の子供を授かり140歳の天寿を全うしたという。
理不尽や苦難は誰にでも突然やってくる
なんとも座りの悪い終わり方である。結局神はなぜ人は苦しまなくてはいけないのか。その理由に答えなかった。これで「やっぱり神は偉いんだ。ヨブも素直に謝ったから幸せになれた。めでたしめでたし」などと思う人がどれだけいるだろうか。特に一神教に馴染みのない日本人には到底理解し難い話である。しかし私たちが納得できないというそのことによって人と神との関係が浮き上がってくる。
ヨブの受難は他人事ではない。自分に突如襲った不幸。地震、津波、不治の病、大切な人を失ったとき…私たちはその理不尽に憤らざるをえない。怒りの矛先がない運命の理不尽を前にしたとき私たちは、特に信仰がなくても神を訴える。「なぜ自分が。自分だけが」「なぜこの人は何も悪いことをしてないのに死ななければならないのか」「まだ赤ちゃんのこの子が何をしたのだ」普段の生活の中で意識したこともない「運命の理由」を求め、その理由がわからないことに納得がいかない。その末に「神も仏もあるものか」と魂の叫びに至る。それでも神は沈黙を貫く。もし口を開いても答えヨブのときと同じだろう「考えるな信じろ」と言うだけである。
人間の罪とは
神は最後にヨブを問い詰めた友人は間違っており、ヨブの方が正しく自分を語っていると言った。神は知った顔をしてヨブを責める友人よりも悩み、苦しみ、ついに神を告発するに至ったヨブの葛藤の方を正しいとした。
不幸に対して憤るのは人間だけだろう。人間にたまたま踏まれて多くの仲間を失ったアリは突如訪れた不幸を憤るだろうか。知性、理性を持っているからこその感情である。聖書の世界観に照らし合わせれば、その原因はアダムとエバが犯した原罪にある。禁じられた知恵の実を食べてしまったばかりに、人間は物の分別がついてしまった。裸であることを知り恥らいを覚えて身体を隠すようになった。神は罰として楽園から追放した。知恵の実さえ食べなければアリのように生きていられたのである。不幸を不幸だと認識できてしまうこと、それが人間が背負う罪である。しかし同時に泣き叫び迷うことこそ人間らしさでもある。知恵の実を食べたのも神の遠大な計画のひとつなのかもしれない。
どんな理不尽な運命でも人間には知り得ない遠大な何かがある。そう信じられるかどうかで生き方は大きく変わると思われる。
人間の根源に迫る物語
ヨブ記は散文も詩文が混じった難解な書物であり解釈も様々である。本編である友人との議論もわかりづらいし、明確な答えもない。しかしヨブほど私たちが共感できる人物もいない。誰しも一度は神を恨んだことがあるはずだ。ここまでストレートに運命の理不尽を神に問う話もない。例えば浄土真宗の篤信者「妙好人」などはどんな不幸があっても阿弥陀如来にお任せしてしまう。最初から神に窘められた後のヨブの域にいるわけである。素晴らしい生き方だが中々真似できるものではない。ヨブは凡人を代表して神を訴えたのである。ただ神を称えるだけではなく、ヨブ記のような人間の根源に迫る物語を差し込んだところに聖書の度量の深さを感じる。一読して自分なりに考察することをお薦めしたい。