入院というものは落ち込むものだ。病院とは日常と切り離された異界である。それが特にこの世の終局となりうる可能性が高い時はどうだろうか。その時、少なくとも本が読める体調であるなら、万が一にもその一冊が寄り添ってくれることで魂の救いを得られるかもしれない。
信仰の無い人にオススメなのが新約聖書
生と死の間のギリギリの線上に立った時、唯物論的な科学や思弁的な哲学がどこまで頼りになるのかは心許ない。科学の対象はこの世の仕組みであるし、哲学は思考で作られた知識体系である。命はこの世では終わらないと、あの世の理を説いてくれるのは宗教だけといえる。
特に信仰の無い人に薦めたいのは新約聖書である。新約聖書には「神の子」イエス・キリストの言葉が溢れているが、その言葉の多くは読者に向けられている。イエスは「復活」によって死を滅ぼし、魂の永遠を説く。そしてイエスは今でも我々に寄り添ってくれているというのである(「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」マタイ福音書28章20節)。
死の影に怯え孤独に苛まれる人が何より求めるのは寄り添ってくれる者、温かく包み込んでくれる存在である。しかし死ぬ時はひとり。自分を愛してくれる家族、恋人、友人といえども寄り添ってくれるのはこの世までである。しかしその後、その先までつきあってくれる存在がある。数ある宗教の中でもイエス・キリストほど寄り添ってくれる存在はいない。それに比べると宗派にもよるが、霊魂や創造神を否定する仏教は抽象的でやや難しい側面がある。禅に至っては「悟り」という高度な意識のレベルを要求される。一方神道は死そのものを遠ざけている向きがあり、神道の神々にはイエスのような人の温度が希薄である。死の孤独に苛まれる人には手を差し伸べてくれる他者の存在が必要だ。筆者の手元にある新約聖書の冒頭には「愛する人が亡くなった時」「悲しみで心がふさぐ時」「恐怖におそわれた時」などの項目があり、それぞれに読むべき箇所が懇切丁寧に提示されている。「悟り」の宗教と「救い」の宗教を比べるなら終末期患者に必要なのは後者だろう。聖書を読みイエスがいつでもそこにいてくれると思えるなら大きな力になると思われる。
弱き人のための歎異抄
哲学的要素が強く超越的存在を認めない仏教だが、日本で浄土仏教という大きな例外が生まれた。特に浄土真宗はキリスト教に似た色合いがある。歎異抄は浄土真宗宗祖・親鸞(1173〜1262)の言葉を弟子の唯円(?〜1289)が書き留めた書物である。浄土仏教は「南無阿弥陀仏」の名号を唱える念仏によって罪人でも怠惰な人間でも、極楽に往生できると救われると説く。名号は呪文でなく阿弥陀仏が我々にわかりやすい形で現れた阿弥陀仏そのものであるという。念仏によって阿弥陀仏はそこにいるのである。念仏は簡単だ。病床にあって瞑想は難しくても念仏はいつでもできる。声に出す必要もなく、練習も勉強もいらない。苦しくても意識がある限りできる。無形のお守りである。信じられなくてもよい。歎異抄に従うなら最後まで恐怖に怯え死にたくないと泣き叫んでもよい。阿弥陀仏はそんな人を見捨てない。そんな人だからこそ仏は救ってくれる。立派な人と弱い人、どちらも困っているなら、より助けなければならないのは後者だろう(「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」)歎異抄 第三節。
先述のイエスの言葉は使徒に向けてのものだが、復活したイエスを疑っていた者もいた。イエスは自分を信じない者も救おうとしたのだ。「救い」の宗教には共通するものがある。形は違えど真理は同じなのかもしれない。歎異抄は聖書などに比べてコンパクトで読むだけなら30分で済むはずだ。そして読めば読むほど味わいが深くなる。
まずは入門書、解説書を読んでみるのも良い
死がすべての終わりではないことを教えてくれる本には他にも「法華経」や「チベット死者の書」、ルドルフ・シュタイナーの著書などもいいだろう。その際は入門書や解説書を先に読むことをお薦めしたい。よく読書を薦める際に入門書、解説書の類では原典に当たるべしと言われる。本質的には正論かもしれないが、専門家になるわけではなく、まして不安に立たされた人にそんな時間も無い。原典とは難しいものだ。語り口が優しい聖書もそれだけでは理解しにくいものがある。無理に背伸びする前に平易な内容で概要を知り、その後で原典に挑んでも良いのではないか。聖書も歎異抄も作者はイエスでも親鸞でもない。福音書の記者や唯円がイエス、親鸞の教えをまとめて書いた解説書といえなくもないのである。入門書から原典に挑戦する時には知的好奇心が刺激され、高揚感が生まれる。それが今後の生きがいにつながるかもしれない。さらに言えばその影響で奇跡的に好転する可能性もなくはないといったら言い過ぎだろうか。
困ったときの神頼み
現代は無神論の時代だろうか。科学時代というわりに宗教を無視しては社会は語れないほどに宗教は力を持っている。やはり人は宗教を求めるということだ。人は死を意識する時、神や仏の存在が浮かび上がってくる。例えば入院時の夜である。消灯時間が来ると部屋は闇に包まれる。生き死にとは関係ないレベルの患者はともかく、終末期患者にとっては孤独と怯えの時間ではないか。そんな時は聖書や歎異抄を胸に当て神仏に思いを馳せることで穏やかな気持ちになれるかもしれない。もちろん誰もが救われる全能の書というわけもないが一読する価値はある。困ったときの神頼みで良いのである。その弱さが人間であり、救われるべき存在なのである。
参考資料
■新約聖書 新改訳 国際ギデオン協会
■来住英俊「キリスト教は役に立つか」新潮社(2017)新潮社
■唯円 著/千葉乗隆 訳注「新版 歎異抄」角川書店(2013)
■暁烏敏「歎異抄講話」講談社(1981)