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キリスト教伝来で勃発した宇宙観をめぐるキリスト教と仏教の対立

この世はどんな仕組みになっているのか。あの世はどこにあるのか。天国は、地獄はあるのか。宗教と科学が混在していた時代、それぞれの文明で独自の宇宙観が確立された。やがて理論が技術と結びつき、海を越えてやってきた黒船が富士山より遥かに高い山を揺るがした。


中世ヨーロッパで起こった天動説VS地動説

ビッグコミックスピリッツ(小学館)に連載中の漫画「チ。地球の運動について」(魚豊・作)が話題になっている。キリスト教(作品ではC教)の宇宙観に支配されていた中世ヨーロッパを舞台に、異端の思想とされていた地動説(太陽中心説)に魅入られた人々と、異端者抹殺に動く教会の異端審問官らの物語である。しかし地動説と天動説(地球中心説)とをめぐる争いはキリスト教と無神論者とのそれではない。作中でも描かれているが地動説を唱える科学者にとっても神の存在は自明であった。彼らが魅入られたのは地動説の美しさである。

数学や物理学ではよりシンプルな理論ほど美しいとされる。神の創造した世界は美しいはず。ならば地動説こそ真理である。コペルニクス(1473〜1543)もガリレオ(1564〜1642)もニュートン(1643〜1727)も敬虔な信仰者だった。天動説もそれ自体はトンデモ説どころか、それなりに整合性のある精緻な理論である。ギリシャの賢人にとって悩みのタネだった惑星の不規則な運動など天動説でかなりの説明がつく。つまり天動説vs地動説はどちらが神の真理に近いかの争いだったのだ。いずれにしてもヨーロッパ人は宇宙、そして地球の構造・運動について深く思索した。そして日本にもキリスト教宣教師が来日、キリスト教的宇宙観が輸入されることになる。


日本には南蛮天文学が先に渡来していた

日本においては「須弥山(しゅみせん)」を中心とした仏教的宇宙観が根付いていた。それは宇宙の構図であり、輪廻の世界を空間化したものである。「倶舎論(くしゃろん)」によると宇宙には巨大な円盤状の風輪が浮かんでおり、その上に水輪、さらにその上に金輪が重なって浮かんでいる。金輪上には海水が満ちていて、この海水が流出しないように鉄でできた鉄囲山が外周を囲んでいる。海上の四方には4つの島が、須金輪の中央に位置する7つの山脈を囲んでいる。そのさらに中央に須弥山がそびえ立っているのである。須弥山は金銀瑠璃などでできた宝の山だという。我々人間の世界は4島のひとつ「贍部洲」(せんぶしゅう)にあるとされる。加えるとこの地下には八大地獄が存在する。


1549年にキリスト教が伝来し、天文学を武器に仏教を批判した

この仏教的宇宙観に浸っていた日本に、1549年イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)が上陸した。日本人は知的好奇心が旺盛で、天体の運行や月の満ち欠けなどの天文学の話を食いつくように聞いていたという。これ以後、イエズス会は日本へ派遣する宣教師の条件として天文学に詳しいことを重視した。まず宇宙論をきっかけとして、徐々にキリスト教の教義へと導こうしたのである。この頃の天文学を南蛮天文学と呼ぶ。もちろんこの頃の天文学は地動説ではなく天動説に基づくものであるが、先述のように天動説自体は精緻な理論で、特に地球説(地球球体説)によってこれまで日本人が信じてきた仏教的宇宙観は大きく揺らいだ。宣教師にとってキリスト教の布教は仏教をはじめとする「異教」を滅ぼすことでもあった。天文学は仏教批判の手段としても効果を発揮したのである。


江戸時代のキリシタン弾圧で西洋天文学も途切れかけたが…

江戸時代に入るとキリシタン禁止と鎖国によって西洋天文学の流入は一度途切れたが、徳川吉宗 (1684〜1751)が天文学に関心が深かったことから、清代の西洋天文学本「天経或問」の訓読本が出版されるなどして須弥山は再び危機に陥った。18世紀末になると本木良永(1735〜1795)、司馬江漢(1749〜1818)ら蘭学者によってコペルニクスの地動説が紹介され精緻な科学理論の前に、須弥山はいよいよ駆逐されつつあった。またこうした動きに乗じて仏教と対立する儒学者、国学者、神道学者らの側も仏教批判を強めた。


そして仏教的宇宙観である須弥山はたち消えた

こうした中、天台宗僧侶・円通(1754〜1834)が須弥山擁護を展開する。円通によると須弥山は禅定(瞑想)により得られる「天眼」によってでしか全貌を把握することはできない。我々が見ている現実世界は須弥山の一部に過ぎないと説いた。「天眼」などを出されては科学的な議論にはならないが、円通はあくまで須弥山は観念ではなく現実に存在する立場を貫いた。後に円通の弟子が東芝の創業者で「からくり儀右衛門」「日本のエジソン」と呼ばれた田中儀右衛門(1799〜1881)に、円通の理論を元に地球儀ならぬ「須弥山儀」の製作を依頼した。須弥山儀は龍谷大学や、セイコーミュージアム銀座などに保管されている。

近代になると浄土真宗本願寺派僧侶・佐田介石(1818〜1882)が円通の意志を継ぐ形で須弥山擁護の論陣を張ったが、須弥山が現実世界として存在する論はこの辺りでほぼ足を止めた。


宗教と科学のカテゴリー

清沢満之(1863〜1903)は次のように述べている。「世界の構成や万物の組織についての説は、学説としては色々の研究が必要なれども、宗教に関しては、いずれの説にても、さしつかえはない」。清沢は科学的事実と宗教的な真実を混同するなと指摘した。既に富永仲基(1715〜1746)が、須弥山は瞑想の産物だと批判していたが、宣教師が天文学を伝えたことで宗教と科学のカテゴリーが混在していることがこの問題をややこしくしている。

南都の傑僧として名高い、法相宗薬師寺の橋本凝胤(1897〜1978)は徳川夢声(1894〜1971)との対談で須弥山世界に基づき天動説を擁護した。天動説でも一向に困らぬと20世紀の真ん中で平然と言ってのけたのである。 確かに我々は生活していく上で天動説で困ることはほとんどない。普段でも日が昇る沈むと言っている。もちろん正確な科学知識は持ち合わせるべきだし、凝胤も東大文学部卒であり当然科学知識も豊富であったはずだ。あくまで知識を持った上で、あえて科学と宗教の違いを述べたのではないか。本来科学と宗教は別のカテゴリーに区別されるべきで、その上で対話を模索することが望ましいといえる。中世の日本人に天文学を見せつけて得意顔だったキリスト教もまもなく地動説に大きく揺さぶられ、自然科学という息子に独立されてしまうことになった。


そびえ立つ須弥山

宇宙には謎が満ちている。知的探究、科学する心は素晴らしいものであるし、エセ科学に騙されないためにも正しい科学知識は身につけておきたい。その上で、宗教の役割は科学のその先にあることも明確にしておかなければならない。例えば死の問題である。科学がどれほど進歩しても死の謎を解くことはできない。正確には客観的現象としての「生物の死」についての真理には迫れるだろう。しかし「私の死」「私の死後」については宗教に委ねるしかない。ここに宇宙観と死生観が結びつく。あの世はあるのか。死後生は存在するのか。今生の命運尽きつつある時、我々の前に須弥山がそびえ立つかもしれない。それは我々にとって非科学的な事実である。


参考資料

■魚豊「チ。地球の運動について」1〜4巻小学館(2020〜)
■定方晟「須弥山と極楽」講談社現代新書(1973)
■清沢満之「精神主義」中央公論新社(2015)
■橋本凝胤「信ずるとは何か」芸術新聞社(2011)
■平岡隆二「イエズス会の日本布教戦略と宇宙論」長崎歴史文化博物館研究紀要 第3号(2008)
■鍋島直樹「親鸞の宇宙観と須弥山儀の再評価」『印度學佛教研究』60巻 第2号(2012)
■西村玲「日本における須弥山論争の展開」『印度學佛教研究』61巻 第2号(2013)
■常塚聡「日本における須弥山説の受容」 『現代と親鸞』 17号(2009)
■木場明志「幕末〜明治初期の梵歴研究について」『真宗連合学会研究紀要』 27号(1983)
■常塚聡「須弥山と地球ー科学的宇宙論と仏教的宇宙観の接触ー」『現代と親鸞』 20号(2010)


ライター 渡邉 昇

記事掲載日:2021/07/16

〈どんでん返し〉の科学史 蘇る錬金術、天動説、自然発生説

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