今年の干支は丑(うし)だ。そして2021年は「辛丑(かのとのうし)」。十干(じっかん)では「辛」は、草木がかれている様子などの衰退を意味し、十二支(じゅうにし)の「丑」は新芽が出ている状態へ移り変わろうとしていることだという。これらのことから、今年は「転換期」にある1年だと言われている。
牛と人との歴史は古い
そもそも「丑」こと「牛」は、哺乳類偶蹄目(ぐうていもく)ウシ科の動物である。家畜で知られる「牛」の他に、水牛・バイソンなどの野生種も含まれる。
「牛」が家畜化されたのは紀元前8000〜5000年頃、西アジアのメソポタミア文明が発祥とされている。しかも牛の場合、家畜としての役割を担っただけではない。例えば今日、会社または政界などの大舞台で、ある人物が主導権を握って支配することを「牛耳る」と言う。これは、中国の春秋戦国時代(BC770〜BC221年)に、諸侯が盟約を結ぶ時、盟主が牛の耳を取ってそれを裂き、血をすすり合って団結を誓った儀式に由来するというように、宗教を含む重要な儀礼における「生贄」として、欠かせない生き物だった。
人の役に立ってきた牛であるが、時に鬼になることもある
このような牛が日本に伝わったのは、中国から朝鮮半島経由で、縄文時代(BC14000年頃〜BC10世紀)または弥生時代(BC10世紀〜AD3世紀)と考えられている。今日のように肉や乳を取るというよりも、耕運機やトラクターがなかった時代でもあるため、農作業の手助けとして、大いに人々の役に立ってきた。しかも牛は大きく太り、なおかつのんびりした雰囲気を持っていることから、豊穣のシンボルとも捉えられてきた。しかし牛は時に、「鬼」になることもある。地獄の閻魔庁の獄卒である「牛頭(ごず)」は、頭が牛、体が人間の化け物で、清少納言(966頃〜1025頃)の『枕草子』(1001年成立)にも、「おそろしきもの」のひとつとして、「名よりも見るはおそろし」と記されている。
墨田区向島にある牛嶋神社と牛との関係性
東京都墨田区向島(むこうじま)1丁目に、牛嶋(うしじま)神社がある。本殿前の大きな鳥居の両側に、小さな鳥居が組み合わせられている「三輪(みわの)鳥居」が特徴的だ。関東大震災(1923年)前は、現在地より北東に位置していたのだが、社伝によると、860(貞観2)年、慈覚(じかく)大師円仁(えんにん、794〜864)がこの地に須佐之男命(すさのおのみこと)を祀ったことがはじまりという。そしてこの神社は、「牛御前(うしのごぜん)社」とも称する。それは、戦国時代の後奈良天皇(1497〜1557)から「牛御前社」の勅号を賜ったことから発するものとされるが、それは例えば『平家物語』(13世紀中期に成立)の「巴御前(ともえごぜん、1157〜1247)」のような、ある特定の人物を指し示すものではない。
古くから牛との関係性が深かった牛嶋神社
もともと向島から両国にかけては、文武(もんむ)天皇の治世(701〜704年)に、「牛嶋」と呼ばれていた。それはこの一帯が、701(大宝元)年の大宝律令において、今日で言う「公営牛牧場」の1つに定められていたことを反映したものだろう。また、「牛」との連想から、疫病・農作物の害虫・邪気を祓う疫神である「牛頭天王(ごずてんのう)」や、菅原道真(845〜903)を祀る天神社につきものの「牛」。そしてもともとは大川(おおかわ。現・隅田川)に臨んだ小さな岬に立地していたことから、いつしか「大川」が「大人」に、更にそれが立派な人・高貴な人を表す「大人(うし)」となり、「岬」が、「御前(みさき)」になったというもの。または、この地で薨(こう)じ、同社に祀られた清和天皇の第七皇子・貞辰親王(874〜929)を「大人(うし)」と尊称し、そしてその陵(みささぎ、墓所)と称していたのを、音が同じ「牛(うし)」、そして「岬」同様「御前(みさき)」となり、「御前(ごぜん)」になってしまったという説など、さまざま存在する。
それらに加えて牛嶋神社には、不思議な言い伝えがある。江戸の元禄〜正徳期(1688〜1716)に成立したとされる浄瑠璃、「丑御前(うしごぜん)の御本地(ごほんち)」がベースとなっていると考えられるものだ。
牛嶋神社に伝わる丑御前の御本地とは
それは、平安時代中期の武将・源満仲(みつなか、912〜997)の次男・丑御前が、母親の胎内に3年もとどまり、生まれたときも、鬼神のような恐ろしい風貌を備えていたことから、満中は殺してしまおうと考えた。それを不憫に思った丑御前の母親が、大和の金峯山(きんぶせん、現・奈良県吉野郡)に住む乳母の「すさき」に託し、ひそかに養育させた。15歳になった丑御前は丈高く、勇猛な少年に成長し、手下の者を引き連れて、暴れまわるようになった。その結果、時の帝によって追討命令が出されることになった。丑御前は乳母のすさきや手下を引き連れ、東国に落ちのびることになる。だが、満仲の長子で名うての武将・頼光(よりみつ、944〜1021)に追い詰められる。接戦の末、観念した丑御前はすさきと共に隅田川に飛び込み、自ら命を絶った。しかしその恨みの念は強く、遠く離れた京の都まで雷のように轟き渡り、多くの災害をもたらし、人々を困らせたという。それを憂えた帝によって、丑御前は「荒人神(あらひとがみ)」、乳母のすさきは「すさきの明神」として祀られ、毎年8月8日に神事を行うようになったという物語だ。
そして牛嶋神社に伝わる伝承は、鎌倉時代の建長年間(1249〜1256)に隅田川から牛鬼のような異形の者が現れて、川沿いを走り、牛嶋神社に飛び込んだ。そして境内にひとつの玉を残していったというものだ。その話はおそらく、『吾妻鏡』(1300年頃成立)建長3(1151)年3月6日条に、牛嶋神社から、隅田川を挟んで対岸にある浅草寺に、牛のような者が突然現れ、寺の僧侶たちを襲い、多数の死者が出たという記載が元になっているのだろう。牛が残していったとされる「牛玉」は、普段は一般には非公開であったものの、病災にご利益があるということで、祭礼の折には御開帳され、人々の信仰を集めていたという。
大阪府東大阪市の石切劔箭神社の献牛祭
浄瑠璃や牛嶋神社における「牛」観とは異なるが、牛そのものを神と捉えたものや、また、牛が絡んだ神事は、日本各地で行われてきた。例えば、毎年7月2日に行われる、大阪府東大阪市東石切町の石切劔箭(いしきりつるや)神社の「献牛祭」だ。今日では発泡スチロール製の牛を用いているというが、昭和初期まで、田植えで働いた牛の労をねぎらうため、紅白の幣帛(へいはく)や錦絵、鈴などで生きた牛を飾り、ともに神社に参拝して五穀豊穣・家内安全を祈っていたという。
福岡県みやま市に祀られている丑御前さま
また、福岡県南部のみやま市瀬高町上庄(せたかまちかみのしょう)には、「牛御前(うしごぜ)さま」が祀られている。それは、田んぼ脇の小さな林の奥の祠に据えられた、高さ108cm、幅34cmの、上部に如来坐像の浮き彫り、下部に「南無阿弥陀佛」と刻まれた石碑だ。「ここ」そのものは、『旧柳川藩志』(1957年)によると、戦国時代に領主・黒木氏の城館が建てられていたとも、古戦場跡とも言い伝えられているのだが、この石碑が何の神仏を祀ったものかは不明であるという。しかしこの地には、平安時代末期〜鎌倉時代の女流歌人の待宵小侍従(まつよいのこじじゅう、1121頃〜1202頃)と浄土宗の僧・行空(ぎょうくう)上人(生没年不詳)にまつわる古伝がある。
待宵小侍従が初代黒木城藩主・黒木大蔵大輔源助能(みなもとのすけよし、生没年不詳)との間に子どもを生んだ。その子が牛に似ていたことから、殺して葬ることにした。しかしその後2人は、土地に災厄が広がったことから、諸国を巡り、仏法を説いた行空上人の噂を聞き、呼び寄せることとした。上人は2人の前世からの宿世、現世の業から逃れることは難しいと説いた。2人は大いに懺悔し、上人に深く帰依した。するとそれまでの業障が消滅し、家運が大いに盛り返した。それを受けて助能は、私財を投じて高野山に講坊を建立した。そして殺してしまった子どもを「胎蔵界外(げ)金剛部牛の宮」、すなわち胎蔵界曼荼羅の外金剛院に描かれた牛の宮と捉え、崇敬の対象とし、地域の氏神とした、というものだ。
この話が上庄の「牛御前さま」と直接的な関係があるか否かは、不明だ。ただ言えることは、平安期にこの一帯が藤原道長の5男・長家の孫である藤原俊忠(1073〜1123)の所領「瀬高荘」だったことから、京の都に広く伝わっていた仏教思想・文化の影響を濃厚に受けていたこと。そして、869(貞観11)年に清和天皇(850〜881)の命で創建されたとされる、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・祖天児屋根命(そあめのこやねのみこと)に加え、「牛之宮」も祀る、鷹尾(たかお)神社(柳川市大和町)が、後に分割された「瀬高下荘」の鎮守であったことと深い関係があるのかもしれない。
最後に…
2021年も7月に入り、折り返し地点に来たが、「辛丑」の言葉通り、コロナ禍に限らず、良きにつけ悪しきにつけ、既成の常識やルールを打ち破る、何らかの「転換」が起こる可能性を意識しつつ、我々の生活から切っても切り離せない「牛」に対して、感謝の気持を忘れずにいたいものである。
参考資料
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■下中彌三郎(編)『神道大辞典 第1巻』1937/1969/1981年 臨川書店
■松村明・山口明穂・和田利政(編)『旺文社 古語辞典 第十版』1960/2008/2015年 旺文社
■全国神社名鑑刊行会(編)『全国神社名鑑 上』1977/1983年 史学センター
■村山修一「牛島神社」国史大辞典編集委員会(編)『国史大辞典 2』1980年(78頁)吉川弘文館
■藤谷俊雄「牛御前」日本歴史大辞典編集委員会(編)『普及新版 日本歴史大辞典』1985年(552−553頁)河出書房新社
■相賀徹夫(編)『日本大百科全書 3』1985年 小学館
■野村みつる「牛神」大島建彦・薗田稔・圭室文雄・山本節(編)『日本の神仏の辞典』2001年(168頁)大修館書店
■村山修一「牛頭天王」薗田稔・橋本政宣(編)『神道史大辞典』2004年(382頁)吉川弘文館
■黒田一充「大阪の夏祭り調査」『関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター 2005』2006年3月31日(31−48頁)関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター
■ふるさと文化誌編集委員会(編)『ふるさと文化誌 第4号 みやまの里物語』2016年 福岡県文化団体連合会
■大関直人「牛頭天王信仰に関する一考察 −牛御前社を事例として−」日本宗教民俗学会(編)『宗教民俗研究』第26号 2017年(1−28頁)日本宗教民俗学会
■みやま市史編集委員会(編)『みやま市史 通史編 上巻』2019年 みやま市教育委員会
■佐々木四十臣「牛御前信仰」みやま市史編集委員会(編)『みやま市史 通史編 下巻』2020年(795−797頁)みやま市教育委員会
■「2021年の干支は丑!由来、暦上の意味、丑年生まれの人の特徴は?」『@DIME』2020年12月29日
■「牛嶋神社【うしのごぜん社】」『東京都神社庁』
■「牛嶋神社/東京都墨田区」『御朱印神社メモ』
■「鷹尾神社」『「ご来福」しよう』
■「鷹尾神社大宮司家文書」『柳川市』
■「鷹尾神社」『八百万の神』