宗教には弊害がある。宗教が悲惨な戦争の原因であることは多い。同時に宗教は癒やしと救いを与えてきた。人智の及ばない苦しみを前にどれだけの人が救われてきたことだろう。日本においてそれは主に仏教であった。仏教が伝わった道、それは救いの道。大谷光瑞(1876〜1948)は救いのルーツを探り、失われつつある救いの遺産を守るため西の秘境へ向かった。
貴人・大谷光瑞
大谷光瑞は浄土真宗本願寺派第22代門主。東西本願寺の一方の雄、西本願寺の頂点に立つ人物である。浄土真宗は宗祖・親鸞(1173〜1262)の弟子筋の直系だけでも10派が存在するが、子孫である大谷家が君臨する西本願寺と東本願寺は現代に至るまで国内の宗教組織信者数1、2位を占める。西本願寺の当時の門徒数は1000万とも言われた。そのトップである「門主」を父・21代光尊(1850〜1903)から継ぐ立場の光瑞は、次期門主として「猊下」「新門さま」と敬われた生き神様であった。法名は鏡如という。大谷家は伯爵位を持ち、光瑞の妻の妹は大正天皇の妃。貴族である。しかし彼は貴人の立場に胡座をかいて一生を終える人物ではなかった。光瑞の名が史上で知られているのは大谷探検隊の功績だろう。
仏教者、西へ
大谷探検隊は光瑞の命により始まった日本初の中央アジア(西域)探検隊である。目的は玄奘(602〜664)ら中国の高僧による仏教東漸の足跡と、中央アジアにおけるイスラム化の過程を明らかにすること。シルクロードに残された遺跡、経典、仏像、仏具の調査、発掘、収集などである。探検隊は3度に渡って行われ、最初の探検は光瑞自らが陣頭に立った。光瑞27歳。隊員も本多恵隆(1876〜1944)、渡辺哲信(1874〜1957)らいずれも20代気鋭の学僧たち。第2次探検隊から参加した橘瑞超(1890〜1968)に至っては当時18歳だった。彼らは太平の眠りから覚めた若き近代日本の象徴といえるかもしれない。
パミール高原、タクラマカン砂漠などの秘境を越える道程は文字通り命懸けの旅であった。高山病で息すらままならぬ状態で富士山より標高の高い山を踏破したと思えば、吹き荒れる砂嵐に耐えたその先には、足を踏み外せば飲み込まれる断崖絶壁が1キロに渡り待ち受けていた。現代ですら危険な旅路である。その過程で行われた古墓の発掘や古文書の採取などの作業は様々な貴重な発見をもたらし日本に持ち帰られた。中でも橘瑞超が発見した「李柏文書」は地理学上の大発見と言われる。それにしてもその情熱には圧倒される。安寧を貪っていられたはずの貴人が何故これほど過酷な旅に出なければならなかったのだろうか。
仏教の原点
光瑞が探検隊を組織した理由は純粋な宗教的情熱であった。仏教がいかにインドから中国に、そして日本に伝わったのか。その足跡、その原点を知りたかったからに他ならない。仏教の原点はもちろんインドであるが、日本には中国から伝来した。日本の仏教は中国仏教、つまりサンスクリット語の経典を漢訳した体系である。我々にはお馴染みの漢訳仏典だが、「無量寿経」ひとつ取っても訳が数種に及び、それぞれ意味や内容が異なる。これでは仏典本来の真意はわからない。それにも関わらず日本の仏教者はインド仏教に関心を抱いた者はほとんどいなかった。日本の仏教は仏陀より各宗の宗祖を崇敬する傾向があり、仏陀より空海や親鸞、日蓮の方が尊ばれている。現代にもおいてもなお、天竺は遥か彼方なのだ。
光瑞にすれば信仰の根本はインドにある。インド仏教への思いは西本願寺の東京別院である築地本願寺に象徴されている。光瑞が建築家・伊東忠太(1867〜1954)に建立を依頼した築地本願寺は、他に類を見ないインド様式の寺院である。予備知識のない人はその奇景に足を止めるだろう。我々が当たり前だと思っている日本の寺院は中国の建築様式が元になっているが、仏教がインド発祥の宗教であるならインド様式の寺院があってもおかしくはない。むしろ当然である。築地本願寺の威容からはこれこそ仏教寺院元来の姿であると、光瑞の獅子吼が聞こえてきそうである。
仏教遺産
探検隊のもうひとつの目的は、中央アジアをめぐる世界情勢である。当時中央アジアは最後の秘境であった。大航海時代も終わりに近づき、欧米列強はこぞって世界地図の残りの空白部分である中央アジアに探検家、冒険家を派遣した。古代都市・楼蘭や「さまよえる湖」ロプノールを発見したスヴェン・ヘディン(1865〜1952)らの活躍もこの頃である(ヘディンは来日して光瑞と親交を結んだ)。
大谷探検隊は向かう先々にイギリスやロシアの駐在員に出迎えられた。辺境の寒村にさえである。彼らは中央アジアを征服しつつあった。欧米列強は次々と地理上の大発見を成し遂げていく。その中には貴重な仏教遺産も含まれていた。そしてキリスト教文化圏の西欧諸国は仏教遺産を美術的な価値でしか求めていなかったという。この状況を仏教者・光瑞が座して見ているわけにはいかなかった。
またシルクロードは仏教東漸の道でありながら仏教遺跡破壊の道でもあった。仏教関連の遺跡はイスラム教徒らによって破壊されてきたのだ。近年でも2001年にアフガニスタン・バーミヤン渓谷にある大仏像がイスラム過激派に爆破されたことは記憶に新しい。このような状況に加え、自然による破壊や劣化からも保護されることなく、仏教遺跡は砂に埋もれていった。シルクロードの町村はほとんどがイスラム教徒で遺跡どころか仏教の知識すらない。光瑞は砂漠に眠る遺跡、遺産を文化的侵略、物理的破壊、自然的崩壊から救わなければならないと考えた。かくして大谷探検隊は西へ向かったのである。
光瑞追放
文化事業は実利とは中々結びつかないものである。80年代西武セゾングループ(当時)堤清二(1927〜2013)がいわゆる「文化戦略」を展開した。パルコ、リブロ、セゾン劇場などいわゆふ「セゾン文化」と呼ばれるムーブメントは一世を風靡したが長くは続かず失脚。セゾングループも解体という結末を迎えた。作家・詩人でもあった清二は、金儲けより大切なものがあるという信条を持っていたが、実利にならない事業を進めれば当然反発を招く。
大谷探検隊には膨大な資金と人材が投入された。もちろん仏像の欠片や汚れた古文書が西本願寺に直接の利益をもたらしたわけではない。それどころか京都市の年間予算と同等と言われた西本願寺の財政が傾いたという。他にも斬新な発想で建築された別邸・二楽荘、エリート養成校として創設した武庫中学の運営など、光瑞は独特の文化事業を進めてきた。こうした散財や改革に反発する声は日増しに上がり、反対派は本願寺系の財団からの流用を指摘し、光瑞の側近数人が逮捕される事態にまで及んだ。この責任を取って光瑞は門主を辞任。伯爵位も返上して下野した。しかしそのまま歴史に埋もれてしまうような男ではない。辞任後中国に渡り上海を拠点に活動したり、後に日本政府の顧問を務めるなど隠然たる力を持ち続けた。
貴人の責務
「天子天台、公家真言、公方浄土、武士禅、日蓮乞食、門徒それ以下」
仏教嫌いの平田篤胤(1776~1843)が宗派別の顧客を分類した言葉だとされる。貧者に救いをもたらすのが宗教であるなら、日蓮と門徒(真宗)の評価はむしろ褒め言葉であろう。しかし日蓮系はともかく、真宗・大谷家は皇室とも縁続きの大貴族、雲上人であった。在家仏教の旗を掲げ底辺に生きる人々に寄り添うことを誉れとしていた真宗が世襲制を敷き、日本最大宗教組織となったのは皮肉の極みである。篤胤もその点を揶揄したのかもしれない。弟子を持たず組織も作らずとした親鸞がその有様を見たら嘆いたに違いない。この門主制に対して柳宗悦(1889〜1961)は天皇制と同じだと揶揄し「法王は潔く下野されるがよい」と厳しく批判している。
とはいえ恵まれた身分だからこそできることがある。光瑞は仏教の原点を求め、仏教遺産の発見、保護に金を惜しみなく使った。ありあまる財力と人材を私利私欲でなく信仰のために使ったのである。仏教のため、即ち慈悲の道である。その意味で光瑞は貴族に課せられた義務=ノブリス・オブリージュを備えた真の貴人であったともいえるのではないか。
今必要な情熱
仏教史に異色の足跡を残したこの怪人の全貌は未だ解明されていない。確実なのは仏教への凄まじいまでの宗教的情熱である。
光瑞は教団僧侶について、経典を暗記するだけで意味も知らず門徒の家で唱えて生活の糧にしていると指摘している。葬式仏教と揶揄される現状から130年前、光瑞は既に仏教界に警鐘を鳴らしていた。
凡百の僧侶を光瑞の情熱と比べるのは酷ではある。しかし現在に至るまで僧侶の大半が悪い意味での葬式仏教に成り果てているのは周知の事実である。生の苦しみ、死の恐怖に救いの光を照らすのが仏教の本義であるなら、光瑞の情熱が今こそ求められている。
参考資料
■長澤和俊「大谷探検隊 シルクロード探検 新装復刻版」白水社(1998)
■佐藤健「阿弥陀が来た道 百年目の大谷探検隊」毎日新聞社(2003)
■杉森久英「大谷光瑞」中央公論社(1975)
■津本陽「大谷光瑞の生涯」角川文庫(1999)
■寿岳文章 編「柳宗悦 妙好人論集」 岩波書店(1991)