毎年6月19日は、昭和23(1948年)に玉川上水で愛人と心中した作家・太宰治(1909〜1948)の遺体が発見された日でもあり、誕生日でもあることから、東京都三鷹市の禅林寺(ぜんりんじ)で「桜桃(おうとう)忌」が営まれるのが恒例となっている。令和の今もなお、世代を超えた多くのファンが集い、39歳の若さで命を絶った太宰を偲んで祈りを捧げている。
人間失格で記された太宰治にとっての葬儀
その太宰が残した、最後の「完成作」である『人間失格』(1948年)に、葬儀にまつわる記述がある。
『ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。』
自身の誕生日が迫った13日深夜、または14日未明に絶命した太宰に対して、文芸評論家の亀井勝一郎(1907〜1966)は、「作家の死の真因は常にその作品であります。制作に於ける君の真摯にして自虐的なる態度が君の死を招いたのでありましょう。君にとって制作する事とは滅びの支度であり実生活の犠牲においてのみ可能な事でありました。君は明確なる自覚において事を成就したのであります。肉体は滅びて君の作品は永遠の命を得たのであります」と6月21日に営まれた告別式において、弔辞を読んでいた。果たして亀井勝一郎は太宰が書き記したように、太宰のことを「わからない」、「まるっきり間違って見て」いたのだろうか。
太宰治の評伝や文芸批評
いわゆる「太宰治」の評伝や文芸批評・研究は、彼が残した様々な作品が、いかに多くの人々の心を引きつけてきたかに比例する格好で、大量に存在する。それゆえに、「解き明かされている」部分もあれば、「人それぞれ」の解釈がなされている場合もあることから、結局は、「太宰治本人に聞かないとわからない」或いは、「太宰治本人にもわからないだろう」でしかない。とはいえ、文芸評論家の奥野健男(1926〜1997)が述べているように、「いつの時代の人間にも共通する人間像の造型でありながら、また一方、人間の存在に迫る社会秩序の酷薄さが対蹠的に浮き彫りされている」ため、「社会秩序が人間に対し、もっとも暴力的である現代を象徴する作品」である「特殊な生涯を体験した太宰の、精神の芸術的自叙伝」の『人間失格』は確かに、底抜けの「明るさ」はないものの、例えば、現実に起こった戦争や闘病生活、学校や職場、家庭などでのいじめやハラスメントなどをにおける苦悩や悲惨さを書き記した、いわゆる「体験手記」「告発文」のような、思わず目を背けたくなる、読み続けることができない…といった陰鬱さは存在しない。といって、ままならない世の中を歪んで捉えることで自分の立ち位置を確保できた人ならではの「卑屈さ」「ひねくれ」「皮肉」「上から目線」「自己アピール」などといった、いわゆる今日的な慣用句で言うところの、「中二病」的な痛々しさもない。言うまでもなく、「明るくはない」のだが、「暗くもない」。むしろ多くの人に「わかりやすい」「つかみ取りやすい」喜怒哀楽の情感が文全体に流れていないことから、それが逆に奥野が言う、「社会秩序の酷薄さ」そのものなのだ。まさに太宰は、言葉通りの「文豪」ということが、この作品においても、明らかになっている。
太宰治が惹かれる理由
こうしたことから、先に紹介した弔辞に関する描写も、決して、「本当は悲しくも何ともないくせに!」「体裁だけ!」などという、他者への「攻撃」や「憎しみ」が内包されたものではなく、または「悪ぶる」「粋がる」といった、自分をよく見せようとするだとか、その反対に、自分をとことんまで貶めるなど、「自分」とは違う「自分」になろう、または他人からそう思われよう、見られようと目指すこと。しかもそれが読者に見透かされてしまうような浅はかさ…といった、「文学者」イコール「繊細」、時に「普通の人」よりも「奇矯さ」を有する傾向があるという、世間一般の常識を裏づける、「感情」「心の動き」が全くない。かといって「ロボット的」、「無感情」というわけでもなく、唯一無二の「太宰治」らしさに満ちあふれているのだ。まさに、「自分には、人間の生活というものが、見当つかない」にもかかわらず、「自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾し、呻吟し、発狂しかけた」。しかしそれを周囲のせいにせず、ひたすら自責的であり、かといってそれを他人に悟られないように終生「道化」を演じてきた太宰だったからこそ、タイトルの段階で既に重苦しい『人間失格』という作品が、「暗過ぎて、最悪!」「自分に酔いしれてる!」「暑苦しい!」などと当時から、そして今日でも、読者にそっぽを向かれることもなく、活字が頭に「入ってくる」、心に「染み渡ってくる」のである。
太宰治が選んだ死に場所(玉川上水)の今
玉川上水脇の、太宰が発見された場所に「玉鹿石(ぎょっかせき)」の小さな石碑が置かれている。この石は、太宰の出身地・青森県北津軽郡金木町(かなぎまち、現・五所川原(ごしょがわら)市)名産の石だという。
『自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。』
『人間失格』における幼少期の主人公・大庭葉蔵の描写である。ここに「太宰治」らしさ、或いは「本性」が描き出されていたとしたなら、生まれ故郷を象徴する石が自分の「死に場所」に、さながら道しるべのように残されていることを、太宰はどう思うだろうか。気の利いた面白いことを言って、とても喜びそうな太宰が想像できる。だが、死んでからはせめて、「おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗ながしてのサーヴィス」を行うことなく、太宰そのものの「本性」をもって、言いたいことを言って欲しい。仮に無視するなら、何もそこに「もの」が存在しないかのように、無視して欲しい、と強く願わずにはいられない。
参考資料
■奥野健男『太宰治論 決定版』1966年 春秋社
■太宰治『人間失格』川端康成・横光利一・岡本かの子・太宰治『昭和文学全集 5』1986年(1050−1100頁) 小学館
■高橋英夫「太宰治・人と作品」川端康成・横光利一・岡本かの子・太宰治『昭和文学全集 5』1986年(1130−1136頁) 小学館
■川端康成・井上靖(監修)『現代日本文学アルバム 14 太宰治』1973/2004年 学習研究社
■東京都歴史教育研究会(編)『東京都の歴史散歩 下 多摩・島嶼』2005年 山川出版社
■『別冊太陽 日本のこころ159 太宰治 生誕100年記念』2009年 平凡社
■井上孝『子ども武蔵野市史』2010年 武蔵野市教育委員会教育部図書館/武蔵野市立図書館
■福田恵一・飯島満(イラスト)『玉川上水 武蔵野ふしぎ散歩 狭山丘陵から新宿までの7コース』2011年 社団法人農山漁村文化協会
■中里崇亮「概説 武蔵野市のあゆみ」中里崇亮(監修)『保存版 ふるさと武蔵野』2013年(14−22頁)郷土出版社
■「太宰治の『桜桃忌』、実は命日じゃない?当時の新聞を見てみると…」『withnews』2017年6月27日
■「たび あっちこっち:東京・三鷹 武蔵野の面影残る大沢の里」『しんぶん赤旗 日曜版』2019年3月17日号(21頁)
■「実生活も人間失格?没後70余年『太宰治』壮絶人生 名作生む一方、自殺未遂、麻薬中毒と波乱万丈」『東洋経済ONLINE』2021年6月13日
■「桜桃忌って何の日?イベントの詳細や太宰治ゆかりの場所を紹介!」『Travel Book』
■『霊泉山 禅林寺』
■「金木町玉鹿石」『青森県庁』
■太宰治『人間失格』『新潮社』