2021年春、東京は3月22日に桜の満開が報じられた。それは2002年3月21日に次ぐもので、例年より10日以上早いという。桜が咲き始める頃になると、分厚いダウンジャケットや重いコートがいらなくなる程の晴天となり、旅心を誘う暖かい風が吹き始めるのだが、そうした時、我々がテレビのニュースや新聞記事などでよく見聞きするフレーズがある。それは「世の中は三日見ぬ間に桜かな」(1777年)だ。今日では、「世の中は三日見ぬ間の桜かな」、すなわち、「桜が三日間で散ってしまう」と伝わっているが、実は「の」ではなく「に」で、「三日間、外に出なかったら、いつの間にか桜が咲いていた」が正しい。
雪中庵蓼太(せっちゅうあんりょうた)とは
この句は江戸時代後期の俳人、雪中庵蓼太(せっちゅうあんりょうた、1718〜87)の手によるものである。蓼太は松尾芭蕉(1644〜1694)や与謝蕪村(1716〜1784)のように、小・中学校、そして高等学校の国語の教科書に載っているほど著名な俳人ではないが、芭蕉によって極められた俳諧の伝統や型、美意識が今日まで継承されていることに関し、多大な貢献をなした人物である。
雪中庵蓼太の生い立ちと俳人として認められるまでの経緯
蓼太は信州伊那(現・長野県上伊那郡)の生まれで、少年期に江戸へ出て、幕府御用の縫物師をしていた。そうした中、句作に興味を持つようになり、深川の雪中庵二世・桜井吏登(りとう、1681〜1755)に入門した。才能に恵まれていた蓼太は、23歳で句集『春の月』(1741年)を著した。そしてその翌年には、『奥の細道』(1702)への強い思いから、陸奥(むつ、現・東北)地方を行脚して芭蕉の遺吟を集め、芭蕉五十回忌追善集として出版された『芭蕉翁奥細道拾遺』(1744年)の編纂に協力した。ちょうどその当時は漢詩文、職業画家ではない教養人の手による文人(ぶんじん)画の流行、朱子学を否定する立場の儒教・古学(こがく)の浸透など、江戸文化そのものが大きな変革を迎えていた時期でもあった。蓼太にとってこのような世の中の動きは、自身の作風や考え方を広く世間に認知してもらうためには、「追い風」になったような状況だった。
雪中庵蓼太、江戸の俳壇で一躍名を挙げる
延亨4(1747)年に雪中庵三世を継いだ後、蓼太は俳諧論集『雪おろし』(1751年)を編み、当時の俳界で大きな勢力を誇っていた流派・江戸座を批判した。その中で、『江戸二十歌仙』(1745年)に掲載されていた「駄作」を取り上げて自ら改作し、自派の正当性、そして芭蕉への回帰を主張したのだ。こうした一連のことから、蓼太は江戸俳壇で一躍、名を挙げることとなった。その後蓼太は、芭蕉の七十回忌に当たる宝暦13(1763)年、かつての深川・要津寺(現・東京都墨田区)に芭蕉を供養し顕彰するため、俤(おもかげ)塚を築いた。そのときの諸国からの参会者は500人余り、芭蕉追悼のための句が3万6000句以上も寄せられるほど、盛大なものだった。そして明和8(1771)年には、要津寺内に芭蕉庵を再興させたりするなど、芭蕉の死後から衰え、卑俗化や混迷を極めていた俳風を改め、後に「中興俳諧」と呼ばれる、芭蕉の詩心への回帰・継承運動に尽力したのである。
その後、蕪村の文人画や句が多くの人に浸透し、愛好されるに至ってからは、「大衆的」「わかりやすい」句を得意とした蓼太自身の存在感は薄れてしまったが、50年以上の俳諧人生において、蓼太は200冊以上の句集を編み、3000人以上の門人を抱え、多くの貴人たちとの交流もさかんだったと言われている。
70歳で亡くなった雪中庵蓼太と来福寺に残る句碑
70歳で蓼太が亡くなって程なく、桜の名所で知られた品川に所在する来福寺(らいふくじ、現・品川区東大井)に、弟子たちによって「世の中は三日見ぬ間に桜かな」の碑が立てられた。平安時代中期の正暦元(990)年創建の来福寺だが、幸いなことに今もなお碑は残り、句そのままに、桜の時期になると毎年、見事な桜が咲き誇っている。
桜の命は実に短い。春風に吹かれ、あっけなく散ってしまう。しかしまた、3月に入ると再び、美しく開花する。来年も蓼太の句を我々は必ず、どこかで目にし、耳にすることだろう。蓼太そのものが世の中から忘れ去られてしまっていても、多くの人々に桜が愛され続ける限り、この句やこの句をつくった蓼太の詩心は永遠に咲き続けるのだ。
参考資料
■大井町役場(編・刊)『大井町史』1932年
■三樹彰(編)『俳句講座 4 古典名句評釈』1959/1969年 明治書院
■松尾靖秋(編)『俳句辞典 近世増補版』1977/1982年 桜楓社
■中村俊定・加藤定彦「雪中庵蓼太年譜稿 −前半生−」『連歌俳諧研究』第66号 1984年(106−119頁)俳文学会
■中村俊定・加藤定彦「雪中庵蓼太年譜稿 −明和・安永期−」『連歌俳諧研究』第67号 1984年(41−66頁)俳文学会
■中村俊定・加藤定彦「雪中庵蓼太年譜稿 −天明期−」『連歌俳諧研究』第68号 1985年(20−38頁)俳文学会
■品川区教育委員会(編・刊)『しながわの史跡めぐり』1988/1997/2005年
■中村俊定「大島蓼太」竹内誠・深井雅海(編)『日本近世人名辞典』2005/2009年(156頁)吉川弘文館
■柘植信行「中世の大井と大井氏ゆかりの地」品川区(編・刊)『品川区史2014 歴史と未来をつなぐまち しながわ』2014年(322−325頁)
■「福岡に次いで東京で桜満開 過去2番目の早さに」2021年3月22日 『テレ朝ニュース』