日常で仏像を見かける機会は多い。家の仏壇、お寺にお参りした時、街に祀られているお地蔵様、など私たちにとって仏像は身近な存在である。また仏像鑑賞を趣味とする人も多く存在する。今回はその仏像の起源をご紹介したい。
仏像が存在しなかったのはバラモン教の教えだった
仏像は仏教が誕生した当初は存在していなかった。これには理由がいくつかある。ひとつは当時のインド社会で主軸をなしていたバラモン教(ヒンドゥー教)が関係している。バラモン教は主に祭祀を重要視する宗教であり、特定の神を造像して祀るという習慣がなかった。仏教もその社会的背景を踏襲していたと考えられる。
仏教も偶像崇拝を禁じていた
そして釈迦自身が偶像の崇拝を禁じていたからである。なぜなら人間は、目に見えるものに執着してしまう傾向があると解釈していたからである。仏教の考え方では執着=煩悩であり、執着を捨てることこそが悟りに近づく行いと考えていた。釈迦自身の偶像を作ってしまうと、自身の目に見えない肝心の仏教の教えを守ることがおろそかになることを危惧していたからである。
しかし弟子たちはシンボルは必要だと考えるようになった
しかし釈迦が亡くなった後、仏教を継承するためにはやはり形として残す必要があると釈迦の弟子たちは考えた。そこで仏教の教えを文字でしたためた経典を作った。次に仏教の教えを印象づけるために釈迦を図像化しようと試みた。だが悟りを得た釈迦の姿はあまりにも偉大であるため、表現することが不可能であると考えた。そこで釈迦に関連するシンボルを図像化していった。
どんなシンボルがあったのか
仏塔…釈迦の遺骨を祀ったもの。
法輪…もとは古代インドの武器である。仏教の教えをチャクラと呼んだ。釈迦の教えが煩悩を砕き、悟りに導くという考えに由来している。
菩提樹…釈迦が悟りを得た場所は菩提樹の下であるため。
仏足…釈迦は生涯旅をしながら教えを布教していたので、その足跡を聖なるものとした。
これらは独立して作られるのではなく、石などに刻まれた仏伝図の中に登場する。仏伝図とは釈迦の行い、生涯、教えを場面ごとに表現したものである。仏教徒たちは釈迦の教えをよりわかりやすく伝えるため、仏伝図を用いて民衆に説いたのである。
そして仏像は誕生した
釈迦を象徴化した表現が生まれたのが約紀元後1年であった。程なくしていよいよ現在我々の知るような釈迦を人物として表現した仏像が造像された。ガンダーラ地方(西北インド)、マトゥラー地方(北インド。現在のパキスタン)の2カ所でほぼ同時期に仏像が造像されていたことがわかっている。最初は仏伝図や仏塔を装飾するレリーフに表現されたが、次第に釈迦の単独像が作られ、その他に様々な種類の菩薩像が作り出された。仏像をメインとして祀る場所が作られるようになったのもこの頃である。
地域によって異なる仏像がやがて東アジアに伝来していく
マトゥラー地方ではインドの土着的な美術様式が仏像造像に用いられた。一方ガンダーラ地方ではギリシャ彫刻のような仏像が作られた。なぜならこの頃ガンダーラには西方の文化が持ち込まれていた。ギリシャで生まれたヘレニズム文化、そしてペルシャ文化が融合し、仏教に取り入れられることで独自の造形を生み出したと考えられる。
このガンダーラ様式の仏像は仏教と共に中央アジアを経て、東アジアへと伝播していく。それに伴い各地で仏教の偶像崇拝が盛んに行われることとなる。
最後に…
このように仏像は複雑な経緯を持って造像された。西方諸国の文化の影響下から誕生したという点も興味深い。異文化を拒むのではなく、受け入れることによって仏教はさらに栄えていくのである。仏像の起源を知ることによって、仏教の多様性が感じられるのではないだろうか。