もしも自分に残された時間が少ないと分かったら、人はどのようにその瞬間へ向かうのだろう。そこには、どのような心の変化が生まれるのだろう。アメリカの精神科医であったキューブラー・ロス(1926-2004)の著書「死ぬ瞬間」を参考として死への過程の第5段階「受容」について考察しようと思う。
死を目前にした眠りは単に衰弱しているというわけではない
静観。自分に迫る死を知ってからここまでの過程において、周囲の人の助けを得て、様々な表現ができた。最期を静かに見つめる時間がやってくる。
この時、本人は周囲の人が見ても分かるほど衰弱した状態のように見え、頻繁に眠るかもしれない。これは、辛さから逃げる眠りではないようだ。キューブラー・ロスはこれを、赤ちゃんの眠りに似ていると表現し、最後の時へ近づいている眠りであるとも言っている。死を穏やかに受容し始めたその時間、その眠りを尊重しよう。
受容に必要なのは安心できる場所と、それを作る家族の手助け
受容の過程においては、家族の助けが今まで以上に必要となる。キューブラー・ロスは、感情が欠落した状態、一人で黙っており時間だけが過ぎていく状態、関心がない状態などと論じている。そのため、周囲の人には、安心していい居場所があること、本人と一緒にいることを伝えることが勧められる。それは、具体的に「もう十分しゃべってくれた。黙っていていいよ。」などという言葉である。この段階においては、医師も十分に注意を払いながら手を尽くし、本人や家族への訪問を繰り返すという。その場所が病院であれ自宅であれ、本人にも家族にも、心の居場所を感じてほしい。
家族のしてあげたい気持ちと本人のしてほしい気持ちに一致が必要
家族の助けがより必要であると述べたが、その助けが本人の考える助けと一致していることが大前提である。キューブラー・ロスが挙げた例が、とても印象的だった。それは、家族は延命治療を望んでいたが、本人は望んでいなかったという話である。最期を穏やかに静かに受け入れており元々の性格上も穏やかで気品があったという本人が、家族が延命治療を望んでいると知り、苦痛を感じ攻撃的で閉鎖的な状態に陥ってしまった。更に、家族を遠ざけるようになり、死を穏やかに受容するができなくなってしまったという例であった。
延命を望む家族と望まない本人だった場合にどうするべきか
ケーススタディとして、ここからどう家族関係を回復する術を考えたい。まず、自分でできる選択があるにも関わらず知らないところで自分の意向とは反対の話を進められてしまっていたと知った時のその嫌悪感を、想像してみよう。
人生の最期において、信頼している家族によって、だ。次に、治療を受ける本人の選択における主語は誰であるか。最期が近い人の延命治療は、身体的に耐えがたい痛みを伴い、精神的に追い詰められてしまうことが多いのだそうだ。延命治療は、その名の通り命を長く続かせる治療であるが、そこに伴う本人の痛みを無視した決定、本人が受け入れない医療行為はするべきではない。この例では、家族が本人の意向を尊重し、本人が望まない延命治療はしないことを約束するべきであった。「選択を違えると、人生の最期が苦痛になってしまいかねない。」キューブラー・ロスの一言が、重くのしかかる。
完全に一致することはないかもしれないがそれでも一緒にいることが重要
「もうがんばれない」ーーこの言葉は、何かの終わりに対する絶望を表しているのではないという。一方で、闘病の終わりが受容というわけでもない。これは本人にしか分からないのかもしれない。「分かるよ」という言葉の危険性について考えたことがある人なら、きっと察しているかもしれない。本人の立場と完全に一致した状態になることができず、本人と同じように経験し考えたわけではないのに分かると言うことは、時に無責任として捉えられてしまう可能性があり、注意が必要な言葉である。
筆者は、医療現場や福祉施設においてこそこのような言葉は避けなくてはならないと学んだことがあり、自分の言葉に非常に注意を払いながら過ごした時間があった。自分ではない誰かとの認識が完全に一致することはない。この学びは、悲しむべきことではなかった。むしろ、分からないからこそ人と人は一緒にいられるのかもしれないと考えた。
本人が「もう頑張れない」と言ってきたら…
「もうがんばれない」などの突然発せられる言葉は、本人からの別れの挨拶のような言葉なのかもしれない。それに対して「そんなことない」と否定せず、かといって「もう十分がんばったよ」と同意もしないでよいのである。正確に答えることが正しいのではなく、全てでもない。その代わり、あなたからも伝えてみるのはどうだろう。
分からなかった。だから話せそうなら聞かせてほしかった。でも、もう十分しゃべってくれたよね。ありがとう。黙っていて大丈夫だよ。今までもそばにいたし、これからもそばにいる。