中央ヨーロッパのチェコ共和国北部のジェチーン市には、「飢饉の岩」と呼ばれる岩が20個ほど存在する。大きさは大体、ワゴン車ぐらいのもので、これらの岩は、チェコからドイツを通り、北海へと注ぐエルベ川の水位が日照りなどで異常に下がった際、姿を現す。何故「飢饉の岩」と呼ばれているのかというと、エルベ川の船頭たちが、川の水位が下がり、生計を立てることができなくなった際、後世の人々に向けて、例えば1904年、フランツ・マイヤー氏による、チェコ語とドイツ語の「私の姿を見たら、嘆くべし」などの警告メッセージを刻んだことから来ている。それらの中には、1616年に刻まれたものもあるという。
現代で飢餓や飢饉の意味を体験的に知り得ることは難しい
今年の梅雨は例年より長引いてしまったことから、野菜が生育不良に陥り、梅雨明け前の7月末には、市場価格がブロッコリーなら例年の2.5倍、ジャガイモなら2.6倍にも及び、コロナ禍で経済不安にある中、消費者に更なる不安を与えていた。とはいえこうしたことは、日本国内の人々が飢餓状態に陥るほどのことではない。それゆえ、果たして我々は「飢饉」という言葉を、実感のあるものとして受け止めることができるのだろうか。
享保大飢饉の犠牲者を祀っている川端飢人(うえにん)地蔵尊
複合商業施設・キャナルシティ博多からも程近い、九州圏最大の「夜の街」、福岡県福岡市博多区中洲(なかす)と、上川端(かみかわばた)商店街をつなぐ水車橋(みずぐるまはし)を渡り、博多川という細い川に沿って博多湾側に歩いていくと、小さな地蔵堂がある。「川端飢人(うえにん)地蔵尊」。花崗岩でできた高さ80センチほどのお地蔵様だ。享保17(1732)年、8代将軍・徳川吉宗の時代に西日本一帯を襲った「享保大飢饉」の犠牲者を祀ったものである。
享保大飢饉の当時の様子
後に名君と称された黒田継高(1703〜1775)が6代目の藩主になった享保4(1719)年から、藩内は毎年のように火災・洪水・干ばつなどの災害に見舞われていた。しかも享保17年の飢饉は、最悪の被害をもたらしたのだ。2月から6月まで続いた長雨、低温。それ以降も冷夏が続き、稲の害虫・ウンカが大量発生したことから、年間52万石を誇っていた米の石高が42万石まで減収するほどだった。そして秋から冬にかけても、天候不順は一向に収まらなかった。霜・雪・冷雨・露に当たって、病に倒れる人々が続出した。こうした一連の状況から大飢饉が発生し、最終的に藩内人口の3分の1、およそ9万6000人が亡くなった。特に被害が甚大であった近在の農村社会は崩壊し、多くの農民たちが自らの土地や生業を捨て、「豊かさ」を求めて商業地の博多や福岡城近辺に押し寄せた。巷には物乞いのみならず、行き倒れてそのまま亡くなってしまった人々の遺骸が溢れ、殊に博多の町の路傍は、「多くて数えきれない」状態だったという。現在の福岡市営地下鉄の「中洲川端駅」「祇園(ぎおん)駅」近辺での餓死者は、博多川の向こう岸にあった「中洲畠」に埋められた。当時の中洲は今日のような華やかな「夜の街」ではなく、川の間に浮かぶ荒れ地で、一部が畑だった。そこに近在の人々が砂混じりの地面を掘り、死体を投げ込み、石を置いていたという。
藩主の黒田継高は飢饉対策に奔走した
藩主の黒田継高は藩を救うため、多くの対策を取った。目安箱の設置、新田開発や堀川工事、飢饉対策のための米の備蓄制度、捨て子の禁止ならびに捨て子の保護・養育奨励など、農村復興政策を推進した。更に役人による恣意的な農政が行われないよう、法令を整備し、農民保護にも尽力した。しかもその間に、藩内の神社、かつて現在の西公園(福岡市中央区)に存在した東照宮・太宰府天満宮・筥崎(はこざき)宮・鳥飼八幡宮・宝満山(ほうまんざん)・宗像(むなかた)大社・警固(けご)神社・雷(いかづち)神社、更には京都の吉田神社にまで、藩内の安寧と領民のための祈祷をさせた。それに加えて、年貢米を大坂(現・大阪)に直送する体制を整え、「天下の台所」大坂市場との紐帯を強化。櫨(はぜ)や楮(こうぞ)の栽培奨励。「店運上銀(みせうんじょうぎん)」と呼ばれる、商工業者への課税。財政収支の明瞭化のために「御積帳(おつみちょう。予算書のこと)」に基づく藩政を行わせるなど、財源の安定・拡大策を取った。それらは一定の効果があったようだが、備蓄米の確保に関しては、農村の新たな負担になったことから、年貢減免を求める騒動が農村部で起こっていたという。
川端飢人地蔵尊は享保大飢饉の50年後に建てられた
こうした取り組みを経て、飢饉による藩内、そして地域の人々の心の傷も癒えたのだろう。大飢饉から50年経った元明元(1781)年、「五十回忌」ということなのか、餓死者の供養のために、「飢人地蔵」が建てられた。
今日、「九州の玄関口」の役割を果たしているJR博多駅からは少し離れているものの、古代に始まる「アジアの玄関口」だった博多湾にほど近い「場所」ゆえに、「ほんとの博多」とも称される、川端地域の連帯の強さのおかげだろう。このお地蔵様は忘れ去られることなく、明治〜大正〜昭和と時代の荒波にもまれつつも、現在に至るまで、毎年地蔵盆の時期である8月23、24日に「施餓鬼(せがき)供養」を目的とした夏祭りが行われるほど、大切に祀られている。
川端飢人地蔵尊は戦争犠牲者の追悼施設も兼ねている
しかもこの「飢人地蔵」は、享保の飢饉の犠牲者だけを供養の対象としているわけではない。第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年6月19日深夜11時における、福岡市域中心部の3.78km、軍関連施設ばかりではなく、官公庁・学校・会社・工場・商店街・一般民家はもちろんのこと、交通・通信・電気・ガス・水道などの生活インフラ全てが破壊され、被災戸数12693戸と、甚大な被害を及ぼした「福岡大空襲」の犠牲者、すなわち被災人口60599人のうち、死者902人、負傷者1078人、行方不明244人とされる犠牲者たちの追悼施設を兼ねるようにもなっているのだ。
コロナが落ち着いた頃に犠牲者追悼のシンボルも建てられるだろう
現在、日本国中の多くの人々は、「明日は我が身」のコロナ感染に怯え、先が見えない現状に苛立ちさえ覚えている状況である。それらがいずれ落ち着いたとしたら、50年も先のことになるか否かはともかく、コロナで苦しみ、犠牲になった人々を悼む「コロナ地蔵尊」や「慰霊モニュメント」などの追悼施設が、全国各地に建立されることだろう。1日も早く、そのような日を我々が迎えることができること。そして「ごく普通の優しい人」が「自粛警察」「マスク警察」「帰省警察」…などと「用心」「警戒心」が昂じ、そこから逸脱している/逸脱しているように見える人々に対し、攻撃的な態度やヒステリー状態に陥ってしまうことから解き放たれることを、切に祈っている。
参考資料
■藤野達善『飢人(うえにん)地蔵物語』1985年 私家版
■「ふるさと歴史シリーズ 「博多に強くなろう No. 49 東中洲物語」『西日本シティ銀行』1989年1月
■竹村公太郎『土地の文明 地形とデータで日本の都市の謎を解く』2005年 PHP研究所
■西野光一「福岡藩における享保の飢饉と救済信仰 −飢人地蔵祭の成立背景と飢饉をめぐる信仰」仏教文化学会(編)『仏教文化学会紀要』2007年(62-89頁)仏教文化学会
■山本博文『江戸三〇〇藩 物語藩史 九州篇』2015年 洋泉社
■「(福岡)博多の人口3分の1に 「享保の大飢饉」を供養」『朝日新聞DIGITAL』2016年8月24日
■「チェコのエルベ川、「飢餓の岩」が干ばつで水面から露出」『REUTERS』2018年8月31日
■「かつては不吉の前兆、川底から「飢饉(ききん)の岩」出現 チェコ」『AFB BB News』2018年9月28日
■「長雨に日照不足…天候不順で『野菜高騰』 食卓に打撃 ジャガイモは前年比2.6倍 ブロッコリー2.5倍」『長野放送』2020年7月29日
■「川端飢人地蔵」『福岡市公式シティガイド よかなび』
■「祭り・イベント」『博多川端 上川端商店街振興会』