多くの宗教は宗派が分かれていたり、発祥がとても古い為解釈が現代とは異なっている事も多いです。突き詰めれば真の定義など開祖にしかわからないのですから、「悟り」の定義も個々人の解釈によるのでしょう。
ちなみに筆者の仏教における「悟り」の定義は、何ものにも囚われず、乱されない静かなる自己の確立です。
誰かに褒められるから・褒められないから……そんな理由で善行も悪行もしません。ただ淡々と動じずに、ありのまま・あるがまま、仏の御心に添うように生きる。それだけです。しかし言うは易く行うは難し。実際に悟りの境地に達するのは非常に難しいもの。
タイに訪れた時の体験談です
以前、タイの京都と呼ばれるチェンマイを訪れる機会がありました。堀に囲まれた小さな市内に、そこかしこに建ち並ぶ寺院。確かに京都を思わせる街並みです。何より感嘆したのは、人々の心に深く根付く仏教の教えでした。
現地の人々は想像以上に穏やかでした。何より驚いたのは、見返りを期待しない善行が当たり前に浸透していた事です。
とあるマッサージ店で、こんな出来事がありました。私がある施術者(仮名:ユン)を指名したところ、受付で「途中からユンに交代する形で、施術担当者が2人になっても良いか」と尋ねられました。了承しましたが交代することはなく、結局最初から最後まで別の担当者が私を施術。ユンが私を施術することはありませんでした。経緯はわかりませんが、タイではよくある事なのでいちいち気にしてもいられません。
迷ったチップ
しかし困ったのはチップです。
私が指名したのでユンは呼び出しを受け、40分かけて原付で店まで駆けつけてくれたのです。こちらも配慮して少々高めの施術を選択しましたが、実際に私を担当したのは別の人。両方にチップを渡すべきか?それともユンか、担当者か?どうすればいいかわからず、ジャスチャーで意図を示しながらユンにチップを見せると、ユンは一切の迷いもなく「担当者に渡して」と示しました。後にチップごと回収・再分配するのかもしれませんが、見る限りチップは施術代とは別に個々の財布に入れているようです。
真相はわかりませんが、彼らは上記以外にも、正直に言えば損をするような場面でも躊躇なく正直さを選ぶことが多いのです。
旅行者に道を尋ねられた時もそうです。自分には何の利益もないのに、当たり前に親切にしてくれます。
そういった振る舞いがごく自然な日常で、そもそも親切だなんて認識もしていないようです。(後編に続く)