葬儀の時、友人代表としてこんな話をよく聞きます。『先に逝って、俺を待っていてくれ。後から行くから、その時は、また酒でも飲もう」。生前の故人との仲の良さを感じます。お酒はともかく、天国で再会できるのでしょうか??もちろん、それは、生きている私たちにはわかりません。会えると思って、信じているだけです。
亡くなると、戒名がつきます。戒名については、詳しくわかりませんが生前に功績があった人や有名人と一般人とは、かなり違うようです。それにかかるお布施も数百万円かかる場合もあるそうです。
『死んだら、みんな平等』と言いますが、お布施や戒名のつけ方を見ると決して平等とは思えません。また、宗教や宗派の違いでも、葬儀の仕方からして違う場合もあるので、天国で再会できるのかその保証はありません。仲の良かった御夫婦が、天国でも仲良く暮らせているのか、ご先祖様に会えるのかこればかりは、生きているうちにはわかりません。しかし、会えると信じたいと思うのが、人情です。
宗教によって異なる死生観
外国籍の友人を多数持つ知人がいます。生前は、言葉の壁もなく、英語で会話もしています。しかし、亡くなったらどうなるのでしょうか?? 外国では、特に宗教の違いに関してとても敏感です。天国では、そんな宗教間の問題はあるのでしょうか??外国人の場合、戒名などがあるのかわかりませんが、関連のある本などを読んでみると、宗教の違いは生前よりも強いようです。
世界中には、いろいろな宗派や宗教がありますが、それぞれにそれぞれの行く場所があります。生前は、宗派など関係なく、会話もでき、コミュニケーションが取れますが天国では、それぞれのいるべき場所があるので、再会できないということを聞きました。亡くなっても、区別や格差があるというのは、死生観の違いというだけではない気がします。
また、人や宗教の違いなのかもしれませんが『死んだら、無になる』と言います。体は、入れ物だけで、心や感情は、亡くなると同時に無に返るということです。理屈の上では、無になると、天国では先に逝った人たちと会えません。魂が宿って、初めて人は生きることができるといいます。その魂が無になった時が命の終わりという意味だそうです。そうだとすると、天国では会えないということになります。
天国で、また会えると思うからこそ、生きていく今があるのではないでしょうか。会えないとわかったら、亡くなるということがとても怖く感じます。生前に友達や恋人と仲良くしても生きているときだけなら、虚しい行為と感じると思います。
一生懸命今を生きること
一般的な言い方では『あの世』と表現します。亡くなった時に行く場所としてのあの世がないというのはとても恐ろしいことに感じます。先に亡くなった家族や若くして亡くなった人たち、連れ合いや友人たちと『いつか、あの世で会える』と信じるからこそ、今を生きていけると思います。生きる張り合いというのは、そういう感情が大事ではないでしょうか。
今を生きる人たちは、天国で再会できることを信じて、精一杯仕事をして、友達を作り家族と暮らし、いつか来るべき時を迎えるというのが、一番ではないのでしょうか。そして、天寿を全うして、天国で再び会えると思いたいです。