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前向きになることがいいことだとは限らない。とどまることを選択する意味。

東日本大震災から9年が過ぎた2020年3月11日。NHK教育テレビのトーク番組「ねほりんぱほりん」が放送された。山里亮太とYOUが人形に扮し「ワケあり」の人物に赤裸々な話を聞き出すという番組である。テーマは「震災で家族が行方不明の人」。家族の死を受け入れられない人達がその「あいまいな喪失」を語った。その中の一人の女性に焦点を当てて考える。


あいまいな喪失とは

東日本大震災の行方不明者は現在でも2529人を数える(2020年3月10日現在 警視庁)。そして家族が行方不明のまま9年の月日を過ごした人達がいる。家族に対する想いも様々だ。既に諦めている人もいれば、いつか必ず帰ってくると信じている人もいる。しかし諦めていても、心のどこかでまだ生きているのではないかという想いがないとはいえない。帰ってくると信じている人とて、常識で考えれば生存しているはずがないのはわかっているはずだ。それでも人は理屈や論理だけで生きているのではない。生きているのか死んでいるのか。その答えは遺体が発見され自らの目で確認するまでは永久に出ない。いわば行方不明者の家族達は生と死の狭間で揺らいでいるのだ。このような状態をポーリンボス博士(ミネソタ大学)は「あいまいな喪失」(ambiguous loss)という概念で捉えた。


番組に登場した夫が行方不明だという女性のあいまいな喪失の始まり

番組に登場した家族の一人は震災で夫が今も行方不明の女性。夫は津波に巻き込まれたと知らされ、震災後に安置所となった学校の体育館で4〜5人の遺体を一人一人確認した。身内の遺体を探すには未処理のままの他人の死を確認せざるをえない。見つけたいという気持ちと見つかってほしくない気持ちが交錯する現場で、ビニールシートを一枚めくる度にリアルな死と対面しなくてはならなかった。遺体はいずれも泥にまみれて全身茶色だったという。医師や警察などのプロですらトラウマになる程の極限状況の中、女性はシートをめくった(正確にはめくってもらった)。夫の生死を確認するために他人の死を直視した。あまりに壮絶な光景である。女性はこれまで100ヶ所以上の安置所を回ったが夫の遺体を確認することはなく、あいまいな喪失に揺らぐことになる。


遺体無き葬儀で空っぽの棺を前にした女性の心境

そうした中、親族が葬儀をあげることを勧めるようになる。女性は夫の遺体がないのに葬儀をあげるということの意味がわからない。立場上拒めなかった葬儀の場では、空っぽの棺を前に何を弔っているのかわからなかったと話す。そして目の前にある遺影はなんと結婚式の写真を加工したものだった。津波で家が流され唯一残っていた結婚式の写真。その夫の着物が黒く加工され遺影にされていたのである。幸せの絶頂を写し取った写真の変わり果てた姿であった。遺体無き葬儀は生と死が不明瞭であいまいに交錯する場だった。


ドラマ「この世界の片隅に」でのワンシーン

ドラマ「この世界の片隅に」(TBSテレビ)の中で主人公の兄の遺骨が返還されるシーンがある。決して中を見てはならないと言われていたが、ふとした事で中身が出てしまう。それはこぶし大の石ころだった。激戦地では遺骨を回収することは難しい。国は家族に「死の事実の形」を届けたのだ。中身を見なければそれは遺骨であり死を受け入れ弔ったはずである。ところが見てしまったことで家族は死を実感できず、あいまいな喪失に陥ることになった。「あんな石では、どう悲しんでいいかわからない」というセリフがその心情を表している。


あいまいな喪失のまま時が過ぎていく

葬儀を勧めた親族の気持ちは理解できるものだ。葬儀の目的のひとつは区切りとして行われる。死者を弔い、残された者が生きていく誓いを「前向き」に立てる場である。しかし死を受け入れていない者は何を弔っているのかわからない。葬儀は死者だけのためでも、残された者だけのためでもない。死者と生者が、死と生があいまいではなくはっきりと交わる場である。女性に比べて夫との愛情の距離が遠いであろう親族は夫の死を事実として受け入れ、明瞭な形で死と交わり、一応の区切りになったと思われる。一方で女性はあいまいな喪失を抱えたまま空虚な記憶が残されただけだった。今でも同居の姑が仏壇を設置し毎日菩提を弔っているのに自分はどうしても線香はあげられないという。女性にとってその仏壇もまた空っぽの棺と同じものなのだろう。


前を向くことは果たして正しいのか

震災も一定の時が過ぎると、復興、未来、明日へつなごう・・といった前向きの言葉が増えてくる。そうした声に彼女はズレを感じていたが、皆が前向きになっている中で話せる空気ではなかった。あいまいであること、留まることは慎むべきなのだろうか。人は前を歩くべきなのか。山里亮太はこう締めくくった。

「『前見て行こうよ』なんていうのは、すごい耳障りがね、よく聞こえるけど、ひょっとしたら、そこが別にたどり着かなきゃいけないとこでもないかもしれませんしね」

前向きになることは素晴らしいことである。ただし唯一の正解でもない。前向きに歩こうとする人達の中で、置いてきぼりになっている人がいることも事実だ。葬式を勧めた親族も良かれと思ったのかもしれないが答えを出すだけが正解ではない。


あいまいさに漂う生きる希望

女性は2004年のスマトラ島沖地震の津波で行方不明だった少女が7年後に家族と再会した「漫画のような」実話を例にあげ、夫がひょっこり帰ってくる可能性もあると冗談混じりに話した。可能性はゼロではない。あいまいである故に。また、家で見かける虫などの生き物や、日常生活の中に夫を感じることがあるという。その場合、既に夫はこの世ならざる存在ということになり矛盾であるが、それもあいまいさ故だろう。あいまいであるからこそ様々な形で夫を感じることができる。時にはその生存を信じ、時には見守ってくれる存在として。彼女はむしろあいまいであること、あえて前向きにならず留まっている状況の中で生きていく意味を見出しているのだ。


受け入れられないことを受け入れる

女性は夫がいつ帰ってきてもいいように生活をしっかりすると話した。前を歩く人生もあれば、こうして待つ人生もある。家族の死を受け入れらないなら、受け入れられないことを、受け入れて生きていく。あいまいであること、それもまた人生の選択のひとつである。無理に世間の風潮に合わせることなく、あえて足を止めることで大切なものが見えてくることもあるのかもしれない。


参考資料

■NHK教育テレビ「ねほりんはぽりん 震災で家族が行方不明の人」2020年3月11日放送
■「あいまいな喪失


ライター 渡邉 昇
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