科学技術の進歩が我々に与えてくれた恩恵は計り知れない。その一方で弊害もまた多い。寺田寅彦は科学的思考と文学的情緒の両眼から世界を「観た」人物だった。彼が「観た」生とは、死とは何か。
二つの眼で世界を観た当代一流の物理学者
寺田寅彦(1878~1935)は東京帝大の地球物理学者として、X線結晶構造解析の研究などの業績を残し、東大に寺田ありと言われたほどの当代一流の物理学者であった。同時に文学者としても夏目漱石の弟子で、漱石の「吾輩は猫である」の水島寒月や「三四郎」の野々宮宗八のモデルとしても知られている。彼は数多くの優れた随筆や俳句を残しており、そこには科学的自然観と文学的省察が重なった独特の死生観が描かれている。そこに通底しているのは、生と死は繰り返される自然のサイクルのひとつとして受け入れる無常観であった。科学者として自然を観察する寺田にとって、死は宇宙の摂理として受け容れるべきものである。こうした自然観・死生観は寺田が「鑑賞」型の科学者であったことが大きい。
仏教的感性と科学的観察が重なる地平
科学者には「鑑賞型」と「干渉型」というべき2つのタイプがある。自然理解型と自然操作型と言い換えてもよい。前者は理論や観測が中心で、自然の構造を理解することに主軸を置く。ニュートンは神の設計図を読み解くと語ったが、彼らにとって自然とは観察・鑑賞の対象である。彼らは自然の摂理の謎を解き、人知を超えた仕組みに驚嘆する。相対性理論、宇宙論、純粋数学などが代表的な分野である。一方後者は自然に働きかける技術を追究する。こちらにとっての自然は介入・改変できる対象である。自然に人知の手を加え、操作することを目的とする分野には核物理、ロケット工学、分子生物学などが挙げられる。寺田は自身が実験物理学者でありながら前者だった。彼の随筆は自然観察日記というべき内容が多い。自然を見る。なぜこうなるのかと考える。自然を観察し鑑賞する科学である。彼にとって「科学すること」とは「自然を観ること」であり「人間を観ること」に他ならなかった。
ーわれわれは通例便宜上自然と人間とを対立させ両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は実は合して一つの有機体を構成しているのであって究極的には独立に切り離して考えることのできないものであるー(日本人の死生観)
ほとんど仏教書と間違えそうな文章である。寺田にとって科学者としての目も文学者としての目も同じだった。そこにあるのは人間も自然の一部であり、自然の理からは逃れられないという無常観である。仏教に似た感性を感じさせるが、仏教は解脱によってその無常の輪廻から脱することを理想とする。日本人の元々の死生観には「もののあわれ」に代表されるように、生死についても四季の移り変わりを眺めているような諦観が強い。この諦観は自然に対して超越的な存在・世界を想定せず、ありのままの姿を淡々と観察する科学的な態度と矛盾しない。自然の理に逆らわず受け入れる。寺田の死生観は「天災は忘れた頃にやってくる」という名言にも表れている。寺田は地震の研究でも知られているが、そもそも地震の予知などは不可能事であり、人間はただこれを受け入れるしかないとしている。なおこの名言は彼の文章には見出せないが、弟子の中谷宇吉郎によると寺田がよく話していたという。
さらに死者が形を変えて生者の中に生き続けるという文学的感性も加わっている。名筆とされる随筆「どんぐり」には、幼い娘に亡き妻を重ねる情景が描かれている。それは死者の姿を生者に重ね合わせる叙情的な死生観の顕れである。寺田の心性には、この世とあの世に連続性を観る日本人の死生観も根付いていた。寺田の中では科学、文学、日本人としての死生観が同じ地平で重なっていたのである。
量子力学の台頭と、身近な理を愛した寺田物理学
寺田の時代、物理学は量子力学の時代に突入しつつあった。そしてその理論は自然の内部に介入する技術としての干渉型科学を劇的に進歩させた。その進歩はやがて原子炉、原子爆弾などを生み出していくことになる。寺田が東大を辞した後に在籍した理化学研究所では原子爆弾開発研究「ニ号研究」が行われていた。だが鑑賞型文人科学者・寺田はこの方向には進まなかった。線香花火の研究、金平糖の角の研究、尺八の音響研究など、「寺田物理学」というべき、身近な生活圏に潜む自然の理を追究する道を歩き続けた。同時にこうした自然観察や、日常の小さな出来事を通して「生と死」を感じさせる随筆も書き続けた。
当時最先端の科学技術が生み出した原爆が広島と長崎に炸裂し数十万の命を奪ったのは、寺田の没年1935年から10年の後のことである。
記号化される生命への警鐘 今こそ必要な「観る」精神
「ねえ、不思議だと思いませんか」が寺田の口癖だった。彼は物理学者・文学者の両眼で身近な事象の本質を探究した。そして人間にとって最も身近なものは生と死である。だが自然に干渉し操作しようとする科学は、生も死も単なる数字・記号に変えてしまう。キノコ雲の下では人命の価値など無意味だった。自然と人間の「いのち」を「観る」寺田物理学の精神は、生命が記号化された現代でこそ再評価されるべきではないだろうか。
参考資料
■青空文庫 作家別作品リスト No.42「寺田寅彦」



























