「538年仏教伝来――」歴史の授業でこう教わった人も多いだろう。葬儀や墓参りなど我々の生活に深く根付いている仏教だが、仏教の伝来については謎が多く、この538年という年でさえ不確実だ。仏教はいつ、どのようにして日本に伝わったのか。それを紐解くキーワードのひとつが「年号」にあるという。
「日本書紀の552年」に残る大きな2つの疑問
538年に仏教が伝来したことは「上宮聖徳法王帝説」などに記載がある。しかし日本の正史である「日本書紀」には552年伝来とある。もし538年に伝来していたのであれば、なぜ日本書紀がそれを無視したのか。これが第一の謎だ。538年、552年のいずれにせよ、当時朝鮮半島南部にあった百済の聖明王から仏像や経典が贈られた、とある。
しかし、紀元前1世紀に記された中国の史書「漢書」に「倭人がときどき朝貢してくる」とあるように、日本と中国・朝鮮との交流はずっと以前から行われていた。日本人も大陸で寺院や仏像を見ていたはずであり、それらが6世紀前半まで日本に伝わらなかったとは考えにくい。そこで、現在では「538年や552年は国家間での正式な伝来であり、民間レベルではもっと前から伝わっていた」との考えから「仏教公伝」という語句を用いることが多い。しかし、この場合も、なぜ国家間の交流(大陸側は王朝の交替があったが)が始まって何百年もたってから公伝されたのかが疑問だ。これが第二の謎である。
日本書紀に見られない年号
そこで浮かび上がるのが「もっと前に公伝されていた。しかし、それは大和の大王家ではない日本国内の別の国家に対してではなかったか」という説である。
その証拠のひとつと考えられるのが「私年号」である。日本書紀によれば、日本では年号は645年に「大化」が初めて定められたとある。その後一時中断し、701年の「大宝」以降は現在の「令和」まで1300年以上続いているとされている。
ところが、地方の寺社仏閣・旧家などに伝わる古文書の中には、これらとは別の年号が記載されていることがある。これらは、大和の大王家が定めた年号とは別に各地域で用いられていた年号、という意味で私年号と呼ばれる。中でも15世紀に李氏朝鮮でつくられた「海東諸国記」という書物には「日本の年号は517年の『継体』に始まる」とある。それだけでなく704年の「大長」に至るまで日本書紀にはない年号が記録されている。これらの年号については「大和の大王家とは別に九州に存在した国家が制定したもの」という説から「九州年号」と呼ばれているが、九州国家の存在自体に否定的な意見も多く、謎は深まるばかりだ。
「僧」の文字が私年号に
注目すべきは、これらの年号の中に「僧聴」「和僧」「僧要」という明らかに仏教に由来するものがある点だ。中でも僧聴は536年制定とされており、上宮聖徳法王帝説に記されている仏教伝来よりも2年早い。年号に「僧」という文字が用いられるには、制定者が僧侶をはじめ仏教そのものについて、十分に理解していなくてはならない。それよりもずっと前に仏教は公伝されていた、と考えるのが自然だろう。