1988年に公開された映画「帝都物語」は魔人加藤保憲少尉を演じた嶋田久作の顔の長い異様な容姿のインパクトが強烈で、莫大な製作費と勝新太郎、平幹二朗、宍戸錠、阪東玉三郎、高橋幸治など豪華なキャストと相俟って、当時大変話題を呼んだ映画であったが、先日初めて見る機会があり、この映画の裏の主人公が平将門であることを知った。原作者は荒俣宏でこの「帝都物語」で日本SF大賞を受賞している。
帝都物語とはどのような話か
明治末期、政府は東京市改造計画を進めていたが、いよいよ千年以上前の平城京や平安京の建設当時と同じように、方位を占い、地霊を鎮め、風水や奇門遁甲(中国の占術)によって都を霊的にも軍事的にも守護しようという仕上げの段階に入っていた。
この事業計画は極秘で、実業家渋沢栄一を責任者として、大蔵省と内務省に軍部も共同していた。計画には安倍晴明の末裔土御門家の陰陽師平井保昌や物理学者の寺田寅彦の他大蔵省官吏辰宮洋一郎、陸軍少尉加藤保憲なども参加していた。
しかし呪殺の秘法蠱術(こじゅつ。古代中国の動物を使う占術)を使い、目に見えない「式神」(陰陽師が使役する鬼神)を操る加藤保憲は千年前、関東に独立国を築こうとして失敗し、討伐された平将門の怨霊を呼び醒まし、東京を壊滅させようと企んでいた。そしてその野望を阻止しようとする平井保昌らとの秘術を尽くしたおどろおどろしい死力尽くした攻防が続くという伝奇的な小説、映画である。
平将門とはどのような人物だったのか
平将門は桓武天皇の子孫高望王の孫で、桓武平氏一族の内紛に端を発した争いで、939年瞬く間に関東一円を支配下に置き、京都の朝廷に対して「新皇」と名乗り、諸国の国司を任じ、関東自立の姿勢を示した。しかし翌年、朝敵として藤原秀郷と平貞盛らの軍に討たれて王国の夢はあえなく潰えた。
将門は死後さまざまな形で伝説化し、怨霊として恐れられたが、関東の人々の信仰に支えられて各地の土産神(うぶすながみ。その者が生まれた土地の守護神)になった。今も関東から東北にかけて、将門の史跡や伝説地が数多く残されている。
怨霊とは死後に落ち着くところのない霊魂である。古来、日本では怨霊が憑依する(霊が乗り移ること)ことによって、個人的な祟りにとどまらず、疫病や天変地異など社会に甚大な被害がもたらされると信じられてきた。平将門の怨霊は菅原道真、崇徳天皇と並んで日本の三大怨霊と言われている。
さらし首にされた平将門と将門塚
平将門は下野猿島で討たれ敗死したが、その首は京都でさらし首にされた。「前太平記」によれば、首は3日後、東国を懐かしく思ったのか空を飛び、武蔵国のある田のほとりに落ち、それより毎夜光り輝いたので、みな肝を冷やし、そこを神田明神として祀ったところ、その怒りも鎮まって怖ろしいことも起きなくなったという。将門の首塚や墓所は関東各地に残るが、代表的なものが東京都千代田区大手町の高層ビル街の一角にある「将門塚」である。
旧大蔵省で起こった平将門の祟り
明治になりこの地に大蔵省の庁舎が建てられ首塚は残ったが、関東大震災で倒壊した。その結果「首塚を粗末に扱うと祟る」という伝説が生まれた。
大正12年関東大震災で倒壊した庁舎を再建するため大蔵省(現在の財務省)は首塚をつぶしてその上に仮庁舎を建設したが、わずか2年で大蔵大臣を始め14人もの関係者が亡くなり、その後も怪我人や病人が続出したことから、大蔵省は仮庁舎を取り壊し、首塚を現在の形に再建せざるを得なくなった。
その後も大蔵省庁舎が火災に遭ったり、GHQの駐車場造成中に死亡事故が起きたり、隣地に建てられた日本長期信用銀行の行員が次々に病気になり、挙句の果てに日本長期信用銀行そのものが破綻してしまうことまで起きてしまった。やはり将門の怨霊が祟ったのだろうか。
最後に・・・
7月初めの雨のある日、「将門塚」を参拝した。塚は東京都指定の旧跡で敷地内は「史跡将門塚保存会」によりきれいに清掃され、お花やお神酒が供えられ、きちんと維持管理されている。
塚の周りには「かえる」の置物がたくさん置いてあるが、これは将門の首が関東に帰ってきたことにかけて、地方に転勤した人や行方不明の人が帰って来られるように願ってとのことである。
雨の中参拝客も絶え間なく訪れていた。それにしても大手町の超一等地に、怨霊の祟りを怖れて鎮魂するために首塚を大切に保存し続けるということは、古来からの日本人の穏やかに暮らしたいと願う生活の知恵であり文化とも言え、長い歴史の重みというものも感じる。