1998年11月、喘息で川崎公害病患者に認定されていた型枠大工Aさん(当時58歳)は喘息の重積発作から心肺停止状態で川崎協同病院に運び込まれた。当時病院の呼吸器内科部長でAさんの14年来の外来担当医であった須田セツ子医師は主治医として治療にあたったが、Aさんは2週間後に死亡した。3年後に同病院のU医師の内部告発により、須田医師は殺人罪で起訴され、川崎協同病院事件と呼ばれている。
患者はどのようにして亡くなったのか
Aさんは緊急救命措置をほどこされ心肺は蘇生したが、意識は戻らず小脳と脳幹に障害が残り、死ぬまで昏睡状態が続き、家族には植物状態と説明された。人工呼吸器ははずされたが、気道を保ち痰を吸入するための気管内チューブは残された。一縷の望みをかけて高気圧酸素療法が試されたが、けいれんや痰をつまらせる危険があるため途中で中止された。ICUから一般病棟に移されても病状は悪化するばかりで重症気管支肺炎の状態で、挿管チューブから痰があふれ出し、家族も正視できないほどであった。家族には急に痰がつまって息が止まることも想定されるが、そうなっても心肺蘇生はできないと説明されており、家族も死期が近いという認識が強くなっていた。2週間後Aさんの妻に「この管をはずして欲しい。」と言われた須田医師は「管を抜けば呼吸できなくて生きていけませんよ。奥さん一人で決められることではないんですよ。家族で来られる人は全員来てください。」と言ったところ、妻は「みんなで考えたことです。実は、今晩みんなでここに集まることになっている。今日やってください。」と答えた。その夜、家族全員の意思を確認し、チューブが抜かれたが、Aさんは背をのけ反らせ体を痙攣させ、苦悶の表情で奇異呼吸を始め、ゴーゴーという軌道の狭窄音と痰がガラガラと絡む音がしたので、須田医師は鎮静剤のセルシンとドルミカムを注射し、それでも治まらないので、S医師に状況を説明し助言を求めると「(筋弛緩剤の)ミオブロックがいいよ。」と言われたので、みずから点滴投与した。(看護婦は須田医師の指示で自分が静脈注射したと証言)そして数分後にAさんの呼吸が止まり亡くなった。Aさんの妻も須田医師に「お世話になりました。」とお礼を述べた。翌日、ミオブロックの使用についてスタッフの誰かから報告された当時の院長は須田医師から事情聴取したが、簡単な注意をしただけで、同病院の最高意思決定機関である管理会議には報告しなかった。その後Aさんの家族からも病院内でもこの事が問題にされることはなかった。
なぜこの延命治療中止が3年後に事件化したのか
Aさん死亡から3年後の2001年10月須田医師と麻酔科のU医師との間で麻酔器を巡る対立が生じ、U医師は後任の院長にAさんのカルテのコピーを見せて、「須田医師がしたことは殺人だ。須田医師を辞めさせなければコピーをばらまく。」と言って騒いだ。新院長は管理会議に報告し、管理会議は須田医師が不適切な治療により患者を死に至らしめたとして、須田医師に退職を勧告し、須田医師は退職した。病院は患者家族に謝罪するとともに事件を公表した。神奈川県警は須田医師に事情聴取を行い殺人容疑で逮捕し、検察庁は須田医師を殺人罪で起訴した。
横浜地裁一審はどのような判決だったか
2005年3月、同判決は治療中止が許容される根拠として、回復可能性および死期切迫性を前提とする「患者の自己決定権の尊重」と「医師の治療義務の限界」の2点をあげ、本件はいずれも該当しないとした。患者本人の意思確認は不可能で、患者家族の真意を十分確認せず、治療も尽くさなかったとして殺人罪の成立を認め、被告を懲役3年執行猶予5年とした。
東京高裁第二審はどのような判決だったか
2007年2月、同判決は第一審のアプローチを批判したが、患者本人の意思は不明であり、治療義務の限界に達していたとは言えないと判断した。ただ、家族に対する説明に配慮を欠いていたとは言えず、抜管が家族からの要請であるとことは否定できないとして、(一審で家族は被告に抜管を依頼していないと証言していた、)懲役1年6か月執行猶予3年と刑を軽減した。
最高裁決定はどのような判決だったのか
2009年12月、最高裁は上告を棄却した。それによるとAさんの死期を判断するための脳波等の検査をしておらず、延命治療の中止は、昏睡状態にあったAさんの回復をあきらめた家族からの要請によるが、その要請は余命や回復の可能性について適切な情報を伝えられてなされたものではなく、Aさんの推定的意思にもとづくものとはいえない。そうすると、本件における気管内チューブの抜管行為をミオブロックの投与行為と併せ殺人行為を構成するとした原判断は正当である、とした。
多くの疑問が残っているが…
なぜ3年後にU医師はカルテのコピーをばらまくと言って騒ぎを起こしたのか。なぜミオブロックの投与について須田医師は自分が患者に点滴で投与したと言い、看護婦は自分が須田医師の指示で静脈注射したと証言が違うのか。
なぜ患者家族は抜管を要請していないと証言したのか。なぜ病院は患者家族に一審判決後5000万円の慰謝料を払って、早期に事態の鎮静化を図ろうとしたのか。(須田医師によれば病院は共産党系であり、この事件でライバルの公明党から激しい攻撃を受けていたとのこと)など多くの疑問が残る事件である。須田医師は判決に納得がいかないとして2010年「私がしたことは殺人ですか?」を出版し、この事件をもとに朔立木は小説「終の信託」を書き、周防正行監督は草刈民代と役所広司でこれを映画化した。須田医師は2年間の医業中止の行政処分の後、処分前に開業していた診療所で毎日大勢の患者の診療にあたっている。最高裁は治療中止の要件や法・ガイドラインの必要性について言及しなかったので、終末期患者の延命治療についてはまだまだ議論が続いている。