パワースポット、開運めぐりと、修学旅行のコース程度だった寺院仏閣の観光地化が進んでいる。若者や外国人観光客が日本の宗教文化に触れる機会が増えるのは結構なことだが、一方でマナー違反も絶えない。神社の宮司や寺の住職はそうした行為を嘆き、本来の意味を訴えかけている。しかしそもそも、その現状を招いたのは当の宗教者たちの意識の低下だとはいえないか。
御朱印騒動
御朱印をめぐる騒動が絶えない。近年、御朱印の人気は留まらず「御朱印ハンター」を称する人もいるほどである。もちろんほとんどの人が礼儀を守り、謹んで御朱印を頂いているのだろうと思われる。それでも一部の心無い人たちによる無礼な態度が目立ってきている。
令和初日、各地の神社では新元号の文字入りの御朱印を目当てに参拝客が殺到した。その中には待たされる時間にすらクレームをつけたり、巫女に恫喝する輩もいたということで、御朱印を取り止めた神社もあった。
その後、予想されていたことだがネットオークションに「令和元年 5月1日」の日付がはいった御朱印が高値で取引されていた。売る方も売る方だが、これを購入する人の心情とはいかなるものか。神仏への畏敬の念はないのだろうか。信心の薄い人が見ても、ほとんどの人は否定的な反応をするに違いない。だが、これもスタンプラリーのコレクターなら納得できる。入手できればそれでよい、収集自体が目的になっているのだ。
商人化する宗教者
パワースポット巡りなどにも言えることだが、神仏などへの畏敬はなく、インスタグラムやツイッターに載せるのが目的である観光客も多い。寺の外陣にまで来ておきながら、写真を撮ったあと礼拝もせずに出ていく光景は、筆者にとって日常である。
メディアではしばしばこういった行為を盛り上げ、僧侶や神主は憤りを隠せない。確かに批判されるべきではある。しかしそれだけだろうか。神社仏閣側にもこういった行為を生み出す一端はないと言えるだろうか。
テレビや雑誌の特集では、彼等はマスコミや芸能人の取材に嬉々として応じる。時には商売人然とした態度を見せ、それを芸能人にいじられて笑っている人もいる。そもそも寺院、神社なる場に足を踏み入れると、おみくじやらお守りやらの「○○円」の価格が並んでいる。何をするにも金が必要な場所なのである。今や神社仏閣は巨大な売店と化している。
簡素な浄土真宗系寺院の光と影
この点、浄土真宗系の寺院は特異である。真宗は本来の仏教の教えとは無関係として、御朱印もおみくじもお守りもない。厄よけも水子供養もない。「グッズ」目当ての観光客は肩透かしを食うことになる。これは寺院としては正論で好感が持てる。
また、真宗系の寺院には御朱印の代わりにスタンプが置いてある寺院がある。まさに御朱「印」で、スタンプコレクターに対する皮肉にも思えて痛快と言えなくもない。
この、潤沢な資金を有する日本最大宗派は、一方でカフェやサロンなどを展開している。ある有名な真宗系寺院のいわゆる「寺カフェ」は、情報番組などでも紹介され、筆者が早朝に出向くと、メディアで評判の限定メニュー目当ての人たちが列をなしている。早朝から決して安くないメニュー求めて並ぶ人たちは貧困層ではないだろう。
筆者などは、彼らを横目になけなしのお賽銭を握りしめ、必死の思いで仏さまを拝む「底辺」の人もいるだろうと考えてしまい、なんともいえない気持ちになる。
かつて浄土真宗は「こじき以下の仏教」と呼ばれた。これは宗教にとって最大の賛辞であるはずだ。貴族や時の権力者の保護を受けた貴族仏教に「成り下がった」宗派の中にあって、底辺以下の人とも扱われない人たちが救いを求めてひたすら念仏を唱えたのである。真宗の隆盛は圧倒的多数の恵まれない「底辺」の人たちに支持された結果であった。それが転じてこのような光景を生むことになったのは皮肉である。
ある日のできごと
とある日、筆者が寺院で法話を聞いていると、ひとりの老人が盛んに罵倒を繰り返していた。
「神様がいればこんな苦労はしねえよ、作り話だそんなもん」
法話の最中、老人は繰り返し叫んでいた。周囲の人は苦笑を浮かべている。僧侶にも聞こえていたはずだが、一瞥もせず話を終えると奥に下がっていった。
しかしながら筆者にはこれがただのいちゃもんには聞こえなかったのである。ネットで悪口を書き込むのとはわけが違う。わざわざ早朝、寺の本堂まで来て坊主に罵詈雑言を浴びせるのは余程のことがあったのではないか。なぜ神様仏様はこのような不条理な世界を作ったのか。なぜこんなにも生きるのはつらいのか。
「神も仏もあるものか」、これは報われない人生を生きる多くの人達の魂の叫びだ。仮にも僧侶であれば彼に近づき、「お腹立ちはごもっともです。もしお時間がおありならば、あちらでお茶でも頂きながら、お話を致しませんか」くらいのことは言ってもいいと思う。それが仏の道を歩む者の努めではないのか。1円にもならないかもしれないが、さまよう心を救いとってやらずして何で宗教者を名乗れるだろうか。
葬式離れについて
現代の葬式離れについても、僧侶のこのような意識の低さが一端としてあるはずだと考える。僧侶は 葬儀の本義や仏法を説くこともなく、型通りの読経を行い、お布施をもらって帰っていく。そのような態度が「坊主丸儲け」、単なる葬儀屋だとの批判を呼び、民衆の葬儀の簡素化への道を開くことになった。
筆者は葬式仏教肯定論者であるが、現代の「葬式仏教」を肯定しているという意味ではない。むしろ現代の僧侶が悪い意味での、商人としての「葬式仏教」に堕落していることを憂い、「葬式仏教」の本義を見つめ直して頂きたいと考えている。
水は低きに流れる
金儲けを否定するわけにはいかない。組織や施設を運営・維持するには必要なことである。それでも、商売は宗教の本義ではないはずだ。宗教者の商人化は結局、庶民の意識にも即物的な思想・態度として伝わっていく。
観光地化にしろ、葬式離れにしろ、御朱印ブーム、それらを批判するのは簡単だ。しかし、それも自らの意識低下が招いたのかもしれないと宗教者が内省することも必要だろう。水は低きに流れる。意識の高さも低さも民衆に伝わっていく。宗教者たちは自分たちの本義を糺す時である。