1981年にWMA(世界医師会)が「患者の権利に関するリスボン宣言」を採択した。この宣言では尊厳を得る権利として、尊厳を保ち、安楽に死を迎える権利がうたわれ、これ以降、日本でも「尊厳死」という言葉が使われるようになったが、「尊厳死」と「安楽死」の違いはまだ明確になっているとは言い難い。
安楽死と尊厳死
1995年の横浜地裁の東海大学安楽死判決では、安楽死を3つに分類している。
(1) 消極的安楽死:苦しむのを長引かせないため、延命治療を中止して死期を早めること。
(2) 間接的安楽死:苦痛を除去・緩和するための措置をとるが、それが同時に死を早めること。
(3) 積極的安楽死:苦痛から免れさせるため、意図的積極的に死を招く措置をとること。
尊厳死は(1)の消極的安楽死に該当するというのが現在の医師の考え方のようだ。
東海大学安楽死事件とはどんな事件だったのか
本件は、東海大学付属病院において、医師が患者の家族の強い要請で迷ったあげく、患者に薬物を注射し、死に至らしめた行為が、積極的安楽死に該当するかが争われた事件である。
1991年4月、骨髄の癌である多発性骨髄腫の末期治療を受けて昏睡状態にあった患者に対し主治医は妻と長男から「患者がこれ以上苦しむ姿は見ていられないので、治療を中止して欲しい。」と要請され、「生命に可能性がある限り治療を続ける。」と説得したが、二人が執拗に要請を続けたため、ついに延命治療を中止する決断をし、点滴、痰引きを止め、尿道カテーテル、エアーウェイを抜去した。
その後長男から「父のイビキが苦しそうで、聞いているのがつらい。父を早く家に連れて帰りたい」と強く要請され、主治医は副作用として呼吸停止を引き起こす可能性のあるホリゾンとセレネースを注射し、更に「父の呼吸が止まらない。楽にしてやりたい。」という長男の要請に、精神的に追い詰められた主治医は家族は患者の代弁者と安易に推量して、心停止の副作用の強いワラソンと塩化カリウムを注射して、長男の見守る中、患者を死に至らしめたというのが経緯である。
懲戒免職、殺人罪での起訴
翌日、病棟の医療スタッフの間で主治医の殺人行為に問われかねない投薬が問題視され、病院上層部に伝わった結果、懲罰委員会が開かれ、主治医は懲戒免職となり、警察にも通報された。そして横浜地検は1992年7月主治医を殺人罪で在宅起訴した。ちなみに「父を楽に」と訴えた長男は「殺人教唆罪」を問われることはなかった。
裁判ではどのような判決が下されたのか
判決では安楽死の手段が消極的、間接的、積極的のいずれであっても、末期患者の治療中止の要件として、次の3点をあげている。
(1) 患者が不治の病を患い、回復の見込みもなく、死が避けられない状況を迎えていること
(2) 治療を中止する時点で、それを望む患者の意思表示があること
(3) 中止の対象は、疾病治療、対症療法、生命維持などすべての措置が含まれるが、どれをいつ中止するかの決定は自然死を迎えさせる目的のもとに中止されなければならないこと
また、同判決では積極的安楽死が許容される次の4つの要件が示された。
(1) 患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること
(2) 患者の死が避けられず死期が迫っていること
(3) 患者の肉体的苦痛を除去、緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと
(4) 患者本人が安楽死を望む意思を明らかにしていること
主治医が起訴された行為は上記の(1)(3)(4)の要件を満たしていないため安楽死とは認められず、殺人の実行行為と断定された。検察は懲役3年を求刑していたが、1995年3月の判決では情状酌量もあり、懲役2年、執行猶予2年が言い渡された。弁護側も検察も控訴せず、刑が確定した。主治医は医師法の行政処分で3年間の業務停止となった。
どうしてこのような事件がおこってしまったのか
元々、強硬な要求をする患者家族と病院には相互不信があり、急遽患者の主治医となった医師は家族との意思疎通も十分でないまま、執拗な家族の要請を断り切れないという精神的弱さがあった上、延命治療中止や安楽死について一人で抱え込み、悩み、迷いながら、他の医師に相談することもなく、実行してしまい、チーム医療が機能していなかった。又、東海大学付属病院は1975年開院と歴史も浅く、患者や家族のためのケアなど終末医療体制にも不備があったと言える。
最後に…
種々の悪条件が重なった状況で起きた不幸な事件であったが、安楽死に一石を投じて、関係者だけでなく、医学界に大きな衝撃を与えた事件であった。
現在、厚生省や医師会でも高齢化社会を迎えたわが国の終末医療のあり方が盛んに議論されているが、患者の意思決定の仕組みや終末期医療の質の向上など課題は多い。