死者を弔う行為は人間にしかないと言われ、「弔い」はしばしば人間と動物の差異を説明する行動として示される。埋葬に類似する行為を行う動物も報告されているようだが、そうした報告が「発見」されること自体、埋葬が例外的な行為であることがわかる。
弔いは生物として特に意味がある行為とは思えない。むしろ手間がかかるだけ非効率的である。死体は放っておけば土に還る。弔いとは自然に反する行為だとはいえないか。しかしそれは人間を特徴づける行為でもある。
ヘーゲルの埋葬論
ドイツの代表的哲学者 ヘーゲル(1770~1861)は人間の「精神」は「自然」よりも優れていると説く。例えば芸術の美は自然の美しさを超えている。芸術(Art=人工)は人間の精神が生み出したものだからだ。この反自然主義は受け入れられない人もいるだろう。しかし自然に反するからこそ人間ともいえるのだ。
ヘーゲルは埋葬について、主著「精神現象学」でギリシャ神話の「アンティゴネー」を題材に言及している。
テーバイの王女・アンティゴネーは国家に反逆して死んだ兄の遺体を国の命令に背いて埋葬した。極刑になることがわかっていても、カラスの餌食になっていた兄の遺体を弔わずにはいられなかったのである。その後彼女は捕らえられ、やがて自害した。
そこまでやるのは、埋葬とは人間を自然から人間の世界へ取り戻す行為であり、人間の尊厳に関わる行為だからである。孟子(BC372~289)が説く逸話にも親の遺体が餌になっていることに耐えきれずに埋葬した話がある。
自然に還元するような埋葬は自然行為
ヘーゲルによれば埋葬とは人間の義務である。遺体はそのままならやがて鳥や獣に食われ自然に還元する。反自然主義者ヘーゲルはこれを耐え難いものとして、遺体を自然界から人間の世界に取り戻し、家族の手で埋葬することで死に意味を与えるべきなのだとした。
近年、自然保護やエコロジーといった考えが広まり、まさにルソーの「自然に還れ」に傾きつつある。自然に還ることは「還る」というように人間のあるべき姿だということだ。しかしヘーゲルは自然主義に対しNOを突きつけた。
葬送とは反自然的行為
人間は遺体を自然に渡すことを拒み、棺桶に納める。先進国であるほど、つまり自然から遠ざかるほどに、土葬や鳥葬などの「自然的」手段から、火葬という「人工的」な手段になっていく。
人間を自然に還す散骨などの「自然葬」について、日本史学者・森謙二は、自然葬は埋葬といえるのかと疑問を呈している。散骨とはいうがそう簡単に自然に還るわけではないようだ。森は、焼骨が土には戻らず、粉砕したはずの焼骨はむしろ一つの塊となっていたと述べている。
散骨はいかにも自然に還る、還すという面持ちがある。しかしそれは骨を撒く遺族の自己満足に過ぎず、実際には自然に還らないモノをただ放棄しただけの可能性も高い。
葬送、埋葬、弔いとは、それ自体が反自然的行為であることから逃れられないのである。
相模原で起こった知的障害者を狙った犯人
2016年7月26日 神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設に、元施設職員の男が侵入、所持していた刃物で入所者19人を刺殺し、入所者職員計26人に重軽傷を負わせた。犯人の男は障害者は生きているだけで社会の不利益であり処分するべきだと主張している。
かつてナチスドイツが同じことをした。優れた者が劣った者を安楽死させるべく実行された、「優性思想」に基づく政策は「T-4作戦」と名付けられた。彼らは障害者を社会に貢献しない「生きるに値しない命」と明言している。
彼らは「弱肉強食」「食物連鎖」の世界を提示している。彼らの行為は自然界のルールに照らせば正しい。障害者などただ栄養を摂取して生きているだけに過ぎず、それだけならまだしも健常者の手を煩わせ、足手まといにしかならない。社会に何の賦与もしないばかりか迷惑な存在なのだ。このような不適合者は当然死ぬべきだし、自然に還すべきである。それが摂理というものだろう。
自然に還れというなら、この事件の犯人ほど自然に忠実な人間はいない。中学の生態系の授業で「食物連鎖」を学んだことがあるだろう。自然は極めて合理的にプログラミングされている。犯人の男は、人間の反自然的な、いわば「弱人強助」を偽善、欺瞞だと指摘したのだ。
「生きている」そのものの価値
2007年 9月24日 ひとりの少女が3歳5カ月の命を閉じた。2005年12月 当時2歳8カ月の中村有里ちゃんは、風邪による急性脳症が元で脳死状態となった。その後も有里ちゃんは、家族や医師らの、献身な介護、治療により成長を続けた。脳死といっても背も髪も伸びることは意外と知られていない。何より温かい体温は少女が紛れもなく「生きている」ことを示していた。
この「社会に貢献しない」「健常者の負担にしかならない」「生きているだけ」の存在を家族も関係者も愛し続けた。動物に非ず、人間として、弱き者死すべしの自然の摂理にNOを突きつけたのである。
仏教では生きとし生けるものはすべて等しいとした上で、弱肉強食の動物の世界を「畜生道」と呼び、「餓鬼」「地獄」と並ぶ「三悪道」としている。「畜生」という言葉は動物愛護の精神からは差別用語になるかもしれないが、知的障害者を「生きるに値しない命」と切り捨てた犯人の男は、人の道を捨て、畜生道に堕ちているといわざるをえない。
自然主義への疑問
筆者はいわゆる「自然」にたいする過度な信仰に懐疑的である。自然に帰れ、自然を守れなどというが、果たして人間は自然と同化できる存在ではない。エコロジーとか自然保護など、言葉の響きは美しいが、自然とはそれほど甘いものではないことは、繰り返される自然災害を見ればわかることではないか。
人間は反自然的行為によってここまで進化した。中でも「弱肉強食」という自然の鉄則に対し、人間は意識を高めていくことで克服してきた。
その象徴のひとつが葬送である。ヘーゲルが言うように、愛する者が旅立ったあと、残された人は最後に葬送という義務を果たさなければならない。愛しい我が子を、親を、鳥獣の餌や土の養分になどできようか。アンティゴネーがなぜ死刑になることも厭わず、兄を弔ったのか。愛する者の遺体を自然の暴力から護り、人間の尊厳を護る。それが人間の義務なのだ。
有里ちゃんの家族や関係者は、有里ちゃんを当然ながら自然に渡すことなく弔った。一方、相模原市の犯人の男は、自然の理に従い、死体を打ち捨てて逃げたのだった。
人間の本質は反自然的存在
美しく聞こえる自然賛美、自然回帰は偏った優性思想を生み出す危険がある。人間は弱い者を護るという、自然や動物とは異なった非合理的な存在だと認識するべきなのだ。しかし、仏教では「畜生道」も「人道」も同じ、解脱しなければ救われない、迷える六道のひとつと教えている。驕らず、謙虚に、自然との関係を考えていくべきだろう。
葬送、埋葬、弔い・・・は、単なる死体処理の手段ではなく、人間の本質の象徴であり、我々に人間とは何かを問うているのである。
参考文献
■G.W.Fヘーゲル著 樫山欽四郎訳「精神現象学」(1997) 平凡社
■森謙二「墓と葬送のゆくえ」(2014) 吉川弘文館
■カール=ビンディング/アルフレート=ホッヘ 著 森下直貴/佐野誠訳 「『生きるに値しない命』とは誰のことか―ナチス安楽死思想の原典を読む」(2001) 窓社
■中村暁美「長期脳死 娘、有里と生きた1年9ヶ月」(2009) 岩波書店