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「お迎え体験は意識混濁下の脳が見せる幻覚」が正しいことに間違いはないが

来迎図という宗教絵画がある。臨終の際に阿弥陀如来が「お迎え」に現れる奇瑞を描いたものだ。来迎図の中でも特に知恩院所蔵の「二十五来迎図」は「早来迎」とも言われるダイナミックな動きの描写が特徴である。極楽浄土から臨終者を波に乗るように迎えにきた阿弥陀如来と近侍仏、眷属一行の勢いのあるスピード感と躍動感があふれている。

現代に生きる我々はこれを見てお伽話に見えるだろうか。しかしこれがお伽噺ではなく、現実に臨終者が見たヴィジョンだとしたらどうだろう。そしてそれは現代における臨終の場においてどのようなは意味を持つのか。


お迎え体験・お迎え現象とは

死を身近に直面した人が「お迎え」を体験することはそれほど珍しいことではない。

「お迎え」に来るのは父であり母であり、神仏であったりし、家族に「お母さんが迎えに来た」などと話す光景はよく聞く話である。その現象の真実れがなんであれ、その人にしか見えない存在との遭遇体験である「お迎え」という現象は存在する。


お迎え体験・現象についてのあるアンケートデータ

岡部健らによる研究グループはこの「お迎え体験」についての聞き取り調査を行い論文としてまとめている。もちろん、当人は既に亡くなっているので、「お迎え」の語り部は故人を看取った家族らということになる。

それによると「お迎え」体験自体の有無は「ある」が42.3%で、故人が見えた、聞こえた、感じたらしきものの内訳は、「既に亡くなった家族」が52.%「そのほかの人物」が34.%と8割以上を占めている。その他は「お花畑」や「神仏」「光」等だがそれぞれ10%ほどであった(複数回答可)。

恵心僧都源信(942~1017)の著書「往生要集」には、臨終の際に如来の「来迎」が無い場合は極楽往生はできないとされている。そこで、かつての貴族は極楽に往生するべく臨終に備えた。極楽浄土を模した屋敷で、阿弥陀像と自分を五色の糸でつなぎ、念仏を唱え、また自分のみならず僧侶や家人も念仏を唱えさせた。しかし現代における「お迎え」においては神仏の来迎は少なく、「お迎え」に来るのは身近な人である場合が多いようだ。


お迎え体験・お迎え現象は臨終に備えたイメージトレーニング?

大村哲夫は「往生要集」の臨終行儀を一種のイメージトレーニングだとしている。「お迎え」の情景をイメージをすることで如来来迎を期待する。現代の「お迎え」現象で神仏の出現が少なくなったのは、神仏や死後世界などへの認識の変化により念仏修行などが行われなくなったからだと述べている。つまり現代人の意識下には、宗教的な象徴が希薄となり、よりリアルな先に死んだ両親などの姿が刻まれているということだろう。しかしこの結論は説得力のあるもだが、医学的見地に偏り過ぎると本質を見失うことにもなる。


お迎え体験・お迎え現象を医学的にはどう捉えるか

「お迎え」体験は医学的には意識混濁下において脳が見せる幻覚・幻聴である「せん妄」と診断される。「せん妄」とは「痴呆」と同義である。つまり臨終を控えて正気ではないと見なしているわけだが、 それを持って結論とするのが正しいこととは筆者は思わない。問うべきは「お迎え」体験がその人と、周囲にどのような影響を与えるかである。岡部らもこう述べている。

「『せん妄』との診断は、そのコミュニケーション上の意義を損なうように働く。『せん妄』と診断し意味づけることは、その限りで、当該の患者のふるまいや語りを『治療』されるべき逸脱状態と見なすことであり、そこから語りを接ぎ広げてゆく可能性を奪うことになるからである」

この「語りを接ぎ広げてゆく可能性」とは、看取る側との「語り」の場の構築である考える。


お迎え体験・お迎え現象は臨死体験とは異なる

「お迎え」体験は、いわゆる臨死体験とは区別される。臨死体験は極めて危機的な状態から蘇生した者が語る事後体験である。つまりその体験の最中に他者とはコミュニケーションは不可能である。これに対し「お迎え」体験は「今、ここ」に、誰かが来ていると本人が家族などに話すことがある。

岡部の調査でも、父親が誰かいるというので娘が聞くと、「母ちゃんがいる。迎えに来たのか」と答えた事例が紹介されている。原理がどうであれ、臨死体験は客観的・医学的な議論を呼ぶことがあるが、お迎え体験は死にゆく者と、看取る側の間に紡がれる物語である。


お迎え体験・お迎え現象を経験した人の死後

岡部は「お迎え」体験をもった患者がほとんど例外なく穏やかな最期を迎える印象をもったと述べており、体験後の故人の様子についてはポジティブな回答が多いとしている。また、それを語る近親者の心情も、医師が言うところの「正気ではない」状態に陥っていたとは捉えず、むしろ好意的な見方をした人が多かったようだ。

スピリチュアルを語る医師・矢作直樹(東大名誉教授)も、患者は死のその瞬間、別の世界にいるような感じで顔がほころぶと話している。その表情は何かを見ているかのように驚いているとのことである。

重要なことはお迎え体験が彼らの意識に何をもたらすかだ。 これを塞げているのは死を敗北とみなし、いかなる形でも延命させようとする医療の現場である。岡部は患者自身は決して延命を望んでいるわけではないと知り愕然としたと述べている。患者の下に誰よりも会いたかったあの人が迎えに来てくれたのだ。そこに何の解釈が必要だろう。


お迎え体験・お迎え現象を私達はどう捉えるのが良いか

我々は「お迎え」体験にどう向かい合えばよいのか。素直に接すれば先にあの世にいった大切な人たちが「お迎え」に来てくれていることは、本人にも近親者にとっても、救いであり癒しではないだろうか。看取る側にとっては、大切なあの人に手に手をとり、他の世界へ旅立つであろうことを、他ならぬ本人の口から聞くことができるのである。

我々は旅立つ人の「お迎え」体験を「良かったね、向こうでも元気でね。みんなと楽しく過ごしてね」と明るく受け止め、語り合う、最後のコミュニケーションの場として尊重するべきではないだろうか。

(注)岡部の研究には、お迎えに来られて恐れる人もいたというデータもあり、手放しに肯定するわけではない。


参考文献

■諸岡了介・相澤出・田代志門・岡部健 「現代の看取りにおける<お迎え>体験の語りー在宅ホスピスの遺族アンケートからー」 (2015) 東京大学グローバルCOEプログラム 「死生学研究」第9号
■大村哲夫 (2009)「臨死のヴィジョン なぜ仏が迎えに来たのかー「往生要集」にみる聖衆来迎のイメージと念仏ー」東北大学文学部 宗教学研究室「東北宗教学」第5号
■矢作直樹・村上和雄 (2013)「神(サムシング・グレート)と見えない世界」祥伝社


ライター渡邉 昇
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