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三井財閥の元最高指導者「団琢磨」の生涯とある一幅の掛軸とのエピソード

奇跡的に命を救われた。ありえない幸運を手にすることができた…そのようなことをかつて日本人は、「仏の加護」と思い、ありがたいことだと感謝していた。

「加護」とは、仏や菩薩が慈悲の心から、妨げられることのない不可思議な作用を及ぼして、衆生に利益(りやく)を授けることを言う。このような「仏の加護」の例として、かつての三井財閥、そして現在の三井グループになくてはならない人物のひとりだった、団琢磨(だんたくま、1858〜1932)が所有していた不動尊の掛け軸にまつわるエピソードを紹介する。

三井財閥の元最高指導者「団琢磨」の生涯とある一幅の掛軸とのエピソード

三井三池炭鉱の経営を任された団琢磨

団は福岡藩士神屋宅之烝・やすの四男に生まれたが、明治3(1870)年に同藩の団家の養子に迎えられた。その翌年、旧藩主黒田家による給費留学生に選ばれ、渡米。マサチューセッツ工科大学の鉱山学科に学び、8年後に帰国。教員生活の後に工部省(1885年廃止)に入省。当時官営だった福岡の三池炭鉱の鉱山局に勤めた。

そこで勝立(かつだち)坑の開発に当たり、懸念となっていた湧水問題解決のために欧米に視察に赴く。その間、三池炭鉱は三井組に払い下げられたが、帰国後の団は明治22(1889)年、三池炭礦社の事務長に就任した。

湧水のあまりの多さ、それによって生じる多大な人的・経済的損失ゆえに、三池炭鉱の経営そのものを疑問視する重役もいた。しかし団は、三池炭礦社の運命は、勝立坑開発の成否にかかわっていると強く確信していたため、首脳陣を説得し、当時高性能を誇った排水装置である、イギリスのデーヴィー社製のポンプ2台を購入させ、坑道内に設置させた。

その結果、掘削時の大洪水発生などの問題が一気に解決した。更に団は、三池港の築港にも関わり、後の巨大石炭コンビナートを形成した大牟田(おおむた)地域発展の礎を築いたのだ。

一方で書画骨董に強い興味を持っていた団琢磨

しかも団は「技術畑」「経営畑」だけの人間ではなかった。大阪専門学校(現・京都大学総合人間学部、岡山大学医学部)での教員時代に知己を得ていたアーネスト・フェノロサ(1853〜1908)の影響から、書画骨董に深い興味関心を寄せていた。

勝立坑開削に苦心惨憺していた当時、折に触れ、団は生まれ故郷の福岡市に出て、いろいろなものを買って、楽しんでいた。ある時、「面白いものがある」と知らせを受けた団は、早速三池の山(「炭鉱」のことを山(ヤマ)と称する)から福岡に飛んで行った。すると、とても大きな、煤で真っ黒けの一幅の掛け軸を見せられた。聞くと、「これは不動尊の掛け軸」だという。数百年の時を経た時代物であるようだ。また、掛け軸の入った箱には、「興山寺什物(じゅうぶつ)」と書いてある。

興山寺の不動尊の掛軸を買った団琢磨

掛け軸はわからないにしても、寺の名前が「山を興す」。自分は「ヤマ」で責任ある立場である。何かの因縁かもしれないと心が動いた団は、その掛け軸を買い取り、そこで、京都で修行して帰って来たばかりという経師屋(きょうじや。掛け軸などの表装を行う職人)に掛け軸の絵の洗浄を依頼した。

その際、経師屋は「この掛け軸はこれまで何度か持参されて、持ち主から、洗ってきれいになるか保証できるかと言われたが、その都度自分は、保証できないと断っていた」と答えた。それに対して団は「保証せよ」とは言わず、「修行のためにやってみなさい」と依頼した。1ヶ月の後、絵の半分ほどが洗浄された。そこには、不動尊が厳然とした様子で、右手に剣、左手に縄を持って立っている。団はそれを大いに喜び、残りを洗浄させた。

不動尊の掛軸を手にした団琢磨の当時の思い

当時の団は、不動尊がどんな仏であるかをはっきりと知っていたわけではなかったらしい。しかしちょうどその当時、炭鉱内の水害、出火に頭を悩ませ、徹夜でその処理に当たっていた。その精神的・肉体的疲労ゆえに団は、水害が起こるたびに神経性胃酸過多症に悩まされ、団担当の医師は、「水害が起こった翌朝早くに、必ず呼ばれるから」と早寝してそれに対応していたほどだったという。これらの諸問題が解決しなかったら切腹する覚悟で臨んでいた団は、水火の中に忿怒の表情で立つ不動尊の掛け軸を手に入れた偶然に深く心を打たれ、この掛け軸を掛け、日々、不動尊の堅忍不抜の強い精神を学んだという。

不動尊の掛軸にまつわるエピソード

そんなある時、団がいつものように不動尊の掛け軸を掛けようとしたところ、どうしたことか、風帯(ふうたい。掛物(かけもの)の天地の天の部分に下げた帯)が掛け軸の背後に巻かれてしまい、矢筈(やはず。踏み台を使わずに掛け軸を掛けるための棒状の道具)で下ろそうとしても、なかなか下がってこない。どうしたものかと思っていると、事務所から電話がかかって来て、すぐ来てくれと言う。火事が起こっていた。扇風機のある建物が焼けている。その真下は一番石炭が出るところだ。大変な騒ぎになっている。幸い、火はすぐに消し止められた。また、築造中の小築港では、満潮のところに、風のために堤防が崩れ、港内に水が入ってくる、とこれまた騒ぎになっていた。幸い、小築港の箇所はほぼ出来上がっていたため、大事には至らなかった。

そして明治27(1894)年4月3日には、勝立坑開削成功祝賀会が行われ、打ち上げ花火、団が趣味としていた謡曲の舞台のみならず、大牟田の町に初めての西洋音楽隊が博多から呼ばれるなど、町全体が歓喜の渦に溢れたという。

団琢磨と不動尊の掛軸の不思議な巡り合い

仏の加護を強く感じた団はその後、もともと掛け軸を所有していたとされる「興山寺」の所在を調べ始めた。掛け軸そのものは高野山の僧からもたらされたものだというので、高野山を訪ねた人に聞いても、そのような寺はなかったと言われた。しかしよくよく調べてみると、「興山寺」は実際に高野山にあった寺だった。高野山の正式な僧侶ではなかったものの、木の実や草の根だけを食べる「木食戒(もくじきかい)」という厳しい修行を行った僧侶・木食応其(もくじきおうご、1536〜1608)が安土桃山時代に高野山中に興した寺だった。室町時代以降の高野山は、学僧と行人(ぎょうにん。修行や寺内の諸事を行う僧)との対立が激しく、荒廃していた。しかし僧兵の力は強く、天下人の織田信長(1534〜1582)・豊臣秀吉(1537〜1598)にとっては、大きな脅威だった。幸いなことに1582(天正10)年に本能寺の変が起こり、信長の攻勢を免れたものの、高野山陣営は、1585(天正13)年に根来寺(ねごろじ。現・和歌山県岩出市)を攻略した秀吉と対峙しなければならなかった。その時、学僧でも行人でもなく「客分」であった応其が、高野山を代表して秀吉の陣に赴き、折衝を行った。その結果、秀吉側から高野山への攻撃がなされることはなかった。しかも秀吉は、応其へ強い信頼を寄せた。そのため応其はその2年後に、秀吉の使いとして薩摩(現・鹿児島県)に赴き、島津氏の降伏を勧めるなど、秀吉の片腕として大いに活躍した。また秀吉は、高野山中に金堂・大塔を建立させたり、興山寺・青厳寺を開創させたりして、高野山復興の尽力したのである。

しかし時を経て、明治時代初期の廃仏毀釈によって、興山寺は廃寺となる。そこで寺内のある僧侶が不動尊の掛け軸を持って、大阪に移り住んだ。そこでその僧侶が偶然、藝州(げいしゅう)藩(現・広島県広島市)の大阪詰めだったある武士が有していた万年青(おもと)の盆栽に心を奪われた。そこで掛け軸とその万年青とを交換した。掛け軸を手にした武士は、後に福岡に移住した。その子孫が生活に窮したため、掛け軸を古物商に売ることとなる。そして最終的に団が手に入れた…。

こうした不動尊の掛け軸との不思議な巡り合いに、更に感動した団は、毎月28日の不動尊の縁日に必ず不動尊をお祭りするようになったという。

ちなみに不動尊とは

不動尊こと不動明王の「不動」とは、梵語のヴィデャーの訳語で、本来は「知識」を意味するものだった。その後、呪文・真言・陀羅尼を指すようにもなっていったことから、「明王」とは、呪文を司る王者、または呪文の中の王、すなわち、すぐれた呪文を指すようになったという。しかも、供物を火中に投じて神に捧げ、息災・増益(そうやく)・調伏(ちょうぶく)・敬愛などを願う護摩の修法において、祈りの対象として、仏・菩薩・明王・天部など、数ある本尊の中から、特に不動明王が選ばれ、多くの人々に親しく信仰されてきた。それは多くの人々が、観音・地蔵菩薩などに優しさを求めるのと同時に、団のように、不動明王の剛健ぶりに強い期待を寄せていたことが大きな理由であるとされる。

三井財閥の指導者となった団琢磨だったが…

三池炭鉱のみならず、日本全国の三井が有していた昔ながらの「ヤマ」が統合され、明治26(1893)年、石炭生産と供給を一手に担う一大組織・三井鉱山合名会社になった。その翌年、団は専務理事に就任し、鉱山部門のリーダーとなった。団は1年の半分を東京、残りの半分を三池と、忙しく行き来した。その後、明治42(1909)年、三井財閥の本社として三井合名会社が設立されると、団は参事に就任した。そして大正3(1914)年、理事長となった団は三井財閥そのものを率い、工業化を含む多角的事業展開を指導する立場となっていた。しかし、組織の巨大化ゆえに、昭和4(1929)年の金解禁、その翌年から1年続いた昭和恐慌の嵐の中で、三井財閥の存在そのものが社会的反発を引き起こしていた。団は三井に対する攻撃の矢面に立たされた格好で、昭和7(1909)年3月5日、東京・日本橋の三井本館前で、要人の「一人一殺(いちにんいっさつ)」というテロリズムによる国家改造を目指した暗殺グループ「血盟団(けつめいだん)」のひとりに狙撃され、亡くなった。

死を予感しつつも死を恐れることはなかったという団琢磨

自らの死を予期していたのか、仏の導きか、「その日」近くの団は、例になく仏事に関係する言行が多くなっていたという。例えば団の原宿の屋敷内に移築された文殊堂に入り、周囲の者に「ぼくは遠からず勤務を辞めてこの堂内に籠り、経文でも為して見たいと思う」と言っていた。また、死の2週間前には、妻と建築家の仰木魯堂(おおぎろどう、1863〜1941)と共に郊外の国分寺(現・東京都国分寺市西元町)まで遠出し、寺内の遺跡より掘り出した古い瓦の断片を集め、もっと見つけようとひとりで藪の中をさまよった。2月9日に前大蔵大臣の井上準之助が暗殺されていたことから、護衛の者が団を止めるほどだった。しかし団は「こんなところまで出かけて来ないだろう」と笑って、潮干狩りに夢中になる子どものように瓦の破片を集めて喜んでいたという。

しかも団は「自分は悪いことはしていない」からと、テロリストを恐れることなく、出勤の際に防弾チョッキをつけることを拒否し、人通りが多い三越側の入り口を使うのを止めなかった。それはかつて、三池炭鉱勝立坑開削における不動尊の「加護」を信じていたためだったのだろうか。

このように三池炭鉱、そして三井財閥の繁栄の礎を築いた、そして当時における「石炭」というエネルギーの重要性を考えれば、日本という国そのものの近代化を促すために重要な役割を果たした団だったが、興山寺の不動尊の加護は、テロリストの凶弾による不慮の死を防ぐまでには及ばなかったのか。それとも、団の「死」を含めて、団が切腹することなく成し遂げることができた三池でのあらゆる事象、そしてそれによって近代日本にもたらされた多くの恩恵こそが不動尊の「加護」だったのだろうか。

参考文献

■故團男爵傳記編纂委員會(編/刊)『男爵團琢磨傳 上下巻』1938年
■岩本裕(編)『日本佛教語辞典』1989年 平凡社
■三井鉱山株式会社(編/刊)『男たちの世紀 三井鉱山の百年』1990年
■有賀祥隆「不動信仰 −忿怒像に求めた救い」田中久夫(編)『民衆宗教史叢書 第25巻 不動信仰』1993年(5−29頁)雄山閣出版
■田中久夫「不動尊信仰の伝播者の問題」田中久夫(編)『民衆宗教史叢書 第25巻 不動信仰』1993年(31−46頁)雄山閣出版
■和歌山県史編さん委員会(編)『和歌山県史 中世』1994年 和歌山県(刊)
■森川英正「団琢磨」臼井勝美・高村直助・鳥海靖・由井正臣(編)『日本近現代人名辞典』2001年(661頁) 吉川弘文館
■田中久夫「応其」竹内誠・深井雅海(編)『日本近世人名辞典』2005年(139−140頁)吉川弘文館
■和歌山県高等学校社会科研究協会(編)『歴史散歩 30 和歌山県の歴史散歩』2009年 山川出版社

ライター

鳥飼かおる

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