葬儀の場は悲しみに包まれている。「死」は永遠の別れなのだから当然のことである。特に現代は科学的世界観により、死はすべての終わりを意味する。しかしそれではあまりに空しくはないか。「死んだらおしまい」ではない葬儀のあり方とは。
僧侶が見る葬儀での光景
「死んだらおしまい、ではなかった」(PHP研究所)の著者の大島祥明師はこれまで2000人を葬送した浄土宗の住職であり僧正の位にある。その大島師は、葬儀の場で故人の「霊」の存在を感じ取れるようになり、「今日はどんな故人の方とお会いできるのか」と葬儀に行くことが楽しみになってきたといい、そのいくつかの例を挙げている。
浄土宗・浄土真宗では死は終わりではないとしながらも、具体的な霊魂の存在を語ることは稀である。そうした中で大島師は2000回に渡る葬儀における自身の体験をそのまま綴っている。
大島師は故人の霊を「本人」と呼ぶ。師によると故人は生前の社会的なしがらみやら、何やらで纏われたものが全て消え去り、素のままの「本人」の姿で現れるのだという。「本人」は遺体の近くにおり、葬儀の光景も見えている。しかしほとんどの場合は自分が死んだことに気づいていないのだという。葬儀の本質とは「本人」に死んだことを悟らせることにあるのだ。
「故人に自分の死を悟らせ、俗世の未練を絶ちきらせていくのが通夜であり、葬儀の本質的な意義なのです」
徐々に自分が死んだと認識していく
大島師によると自分の死に気づくまでには時間がかかるとのこと。「通夜、葬儀、初七日、四十九日と回を重ねていくうちに、何度も何度も『あなたは死んだのですよ』と伝えていくことにことになります」とし、これが枕経であり、通夜であり、葬儀を行う意義であるとも語る。
また法要の数を重ねていく度に「本人」の感じ方が徐々に薄くなっていくと述べている。このような法要は、遺された人に区切りを与えるグリーフワークとして機能している面があるが、死者にとっても有効であるらしい。
その上で、「故人の供養とは、ご遺族が行うことであって、決して僧侶が行うことではない」「本当に『本人』に納得させられるのはご遺族の心からの祈りである」とも語っている。
師の言説に従えば法要の度に「本人」が存在していることになり、「本人」にとっては遺族との心の交流が大きく影響されることになる。
科学的にはありえないが…
これらの話をどう捉えるだろうか。大島師の体験を「科学的にありえない」と否定するのは意味がない。大島師が見て感じたそのこと自体は事実であり、師の立場から言えばそれが「科学的にありえないこと」ならば、その科学が間違っているとしか言えない。自身の純粋経験を科学に合わせる必要も義務も全くない。
大島師の言を受け入れるか拒否するかは、我々が選択するだけである。そしてもし受け入れるなら、葬儀の場には故人がいることになる。
義理や形式で参列してもつまらぬだけである。しかしそこに故人がいるならば、中身が濃いものになるだろう。親族・関係者であれば悲しみも和らぐ。大島師も、故人を思い出し、故人を偲んで会話をすることが法事の意義だとしている。
死に対する二律背反な思い
そもそも我々は死者に対してはアンビバレンツ(二律背反)な思いを抱いている。科学が発達しようとも、神仏や霊の存在を完全に否定する唯物論者は中々いるものではない。初詣に行き、墓参りに行く人がほとんどだろう。また、供養、祈願、いかなる理由であれ神仏・故人に手を合わせたことのない人は少ないはずだ。確固たる信条はなくとも、そうした存在は「なんとなく」あるような気がするものである。
一方でほとんどの人は、故人は「星になった」とか、「心の中に生きている」とか「いつでもそばにいる」などといった表現が、悲しみを和らげるための方便であることも承知している。言葉ではそう言いながら本当に星になってるとは思っていない。そう思わなければ悲しみに耐えられないのだ。
しかしその思いは切実ながらも、先ほどの“なんとなく存在している”感性との間には矛盾がある。この「なんとなく」の方の感性を磨いていけば、死者に対する思いも変わるはずである。即ち「死んだらおしまいではない」死者は存在すると。
最後に…
この考えに至ると、喪失感とは別の感情も生まれてくる。いま・ここにいる故人のためにできることはないか。いま・ここにいる「あなた」にしてあげることとは。それはただ悲しむだけの、ある意味で自己中心的な場から、その人に語りかける純粋な祈りの場となる。大切な人はそこにいる。その人はどんな言葉をかけてあげれば喜んでくれるだろうか。