神奈川県横浜市西部に位置する旭区は、東京都八王子市や町田市から連なる多摩丘陵、そして一部が相模野台地に含まれ、かつての武蔵国と相模国の境界に位置する。東は保土ヶ谷区、南は戸塚区・泉区、西は瀬谷区、北は緑区に接し、横浜市中心部からは約7km、そして東京都心からは約31km離れている。
ねこ塚とは?
関東に武士が登場する平安時代末期には鎌倉に通じる道が整備され、「いざ鎌倉」の言葉ではないが、多くの武士たちが駆け抜けた「場所」だった。例えば1205(元久2)年6月には、区内を流れる二俣川(ふたまたがわ)で、畠山重忠(はたけやましげただ、1164〜1205)と北条義時(よしとき、1163〜1224)による、「鶴ヶ峯の戦い」が勃発した。時を経て、江戸時代になってからは、合戦のような政治的に目立つ事象はなかったが、幕府を下支えする形で、緊密な村落共同体が形成されていた。
その当時の状況がうかがい知れる塚と、それにまつわる言い伝えがある。旭区の南西部に位置する善部町(ぜんぶちょう)の妙蓮寺(みょうれんじ)のそばに、「妙法門法妙喜信女 元禄七年十月二日」と刻まれた「ねこ塚」と呼ばれる塚がある。
ねこ塚の言い伝えとは?
この塚がある地域は善部谷(ぜんぶだに)と呼ばれ、木立に覆われた小山だった。近くに戸塚道や藤沢道などが通じてはいたが、昼でも暗く、人があまり近づくこともない寂しい場所だった。元禄7(1694)年の秋のこと、ひとりの年老いた六部(ろくぶ、六十六部の略称で、日本66カ国の寺社を巡り、各々に『法華経』を奉納することを目的とした、旅の巡礼者)姿のおばあさんが1匹の猫を抱いて、弱々しい風情で善部谷を通りかかった。村人がおばあさんに声をかけたが、おばあさんは「ご心配をおかけして、すみません」と答え、谷の奥に消えて行った。数日後、たまたま村の木こりが小山に行こうとしていたところ、1匹の猫がしきりに鳴いて、何かを知らせようとする。猫の後をついて行った木こりは、松の木の根元で倒れているおばあさんを発見した。驚いた木こりは村に戻り、村人を伴って、小山に駆けつけた。おばあさんはすでにこと切れていた。そして先ほどの猫も、おばあさんの襟元に横たわり、死んでいた。村人はおばあさんを引き止めなかったことを悔い、おばあさんと猫をねんごろに葬って、石塔を建てた。いつしかその石塔は、村人たちから「ねこ塚」と呼ばれるようになり、多くの卒塔婆が立てられていた。そして村内で犬や猫が死んだ際は、そのそばに葬っていたという。1971(昭和46)年にゴルフ場ができてから、「ねこ塚」は移され、死んだ犬や猫を葬ることもなくなったという。
外からの来訪者・異人をどう扱うか、もてなすかという問題
善部の村人たちは自分たちが住む平和な共同体の中に入ってきた、いわゆる「よそ者」、「異人」である六部姿のおばあさんを手厚く歓待しなかったことを後悔し、丁重に供養し続けた。しかしこうした対応は村々によって、または同じ村であっても、その時々の状況に応じて、大きく異なってくる。主に諸国を遍歴する六部・座頭・山伏・巫女などの「異人」は、来訪先の人々が持たない知識や「資源」を有していることで、それらが共同体にもたらされ、何らかの利益・幸福が生じた「経験」がある場合は、畏れ敬う気持ちから村人たちから歓待される。しかし逆に、偶然であっても、異人の来訪後に共同体全体、または特定の家に災厄が発生したことがあったとしたら、忌み嫌われ、強く排除され、時と場合によっては殺されてしまうのだ。
異人が存在するからこそ、自らを知り、認識することになる。
文化人類学者の山口昌男は『文化と両義性』(1975/2000年)において、「いかなる文化であれ、いかなる時代であれ、人間の思考というものは二項対立の組合わせ(原文ママ)として世界を分節化していくので、社会の外側から周縁に現われる正体の定かでない異人には、『中心』と『周縁』、『日常』と『非日常』、『秩序』と『無秩序』といった対立項のうちの後者の項目」が託されざるを得ないため、「必然的に異人についての原初的イメージは両義的・多義的なものになってしまう」。しかし、それと同時に、「我々」が「我々」を「知る」ためには、「異人」という存在がなくてはならない。それゆえ、時に「我々」は、「我々」とは異なる「異人」を意識的/無意識的につくり出すこともあり得ると述べている。
言い伝え(事実)が伝承によって真逆になった事例
善部の六部のおばあさんのエピソードはともかく、高知県のO村に伝わっていた、六部にまつわる伝承で、後から話の内容が真逆になった事例がある。
昔、四国から来た六部がO村に迷い込み、病を得て行き倒れになっていた。現在、村の有力者であるS家の祖先がその六部を家に引き取り、看病していた。しかし六部が大金を所持しているのに誘惑され、S家の主人は六部を殺し、その持ち金を奪った。S家が今日富裕であるのは、その時の金が元手だったのだ。しかし六部の霊のたたりが子孫に出るため、S家の当主は、村域からほど近い峠の路傍に、六部を祀る碑を建立した…
これは、富裕で村を取り仕切っているS家に対する村人たちの羨望による「デマ」、或いは「誹謗中傷」だったのだろうか。
しかしこの伝承が時を経て、以下のように話の内容が変化したことを、高知県の郷土史家・桂井和雄は指摘した。
今(1977年)から240年ほど前に、O村に入って来た旅の遍路がいた。一夜の宿をある民家に乞い、旅装を解いた遍路だったが、夜中に激しい腹痛と下痢に襲われた。遍路はその民家で寝込んでしまった。息を引き取る前に遍路は家の主人に、自分の持っている遍路杖とまくらを形見として残すように言った。死後、主人は遍路の生国に便りを出した。すると遍路の兄が遺品を引き取りに来た。遍路の兄がまくらを懐刀で引き裂くと、目もくらむばかりの黄金が出て来た。そして杖は、遍路を葬った近在の山中に埋めていると告げ、主人は兄を遍路の墓に連れて行った。そして兄が杖を打ち割ったところ、そこからも黄金が出て来た。兄は主人と村人たちに多くの黄金を渡し、遍路のための墓碑を建立することを願って去って行った…。
日本への移民の流入が増加し、現在世界4位
経済協力開発機構(OECD)加盟35カ国の2015年における、外国人移住者統計によると、日本への流入者は前年比およそ5万5000人増の約39万1000人となり、前年の5位から4位に上昇した。日本国内で1万人以上を占める外国人移住者は、多い順に、中国・ベトナム・フィリピン・韓国・アメリカ・タイ・インドネシア・ネパール・台湾となっている。ちなみに、外国人移住者が多い国の1位はドイツ(約201万6000人)、2位はアメリカ(約105万1000人)、3位はイギリス(約47万9000人)である。
「異人」という存在が記録として残されている文献は1231年が最古
かつての「異人」、六部の存在が記録として残っているものは、『東大寺文書』の1231(寛喜3)年の史料、「六十六部如法経内一部請取案文」が初見とされているが、『太平記』(1370年頃成立)には、北条時政(1138〜1215)が、箱根法師という六十六部の生まれ変わりという霊夢を見たというエピソードが記されていた。同様に、源頼朝(1147〜1199)の前世も六部だったと信じられてもいた。それゆえ六部は、来訪される側からすると、聖俗が混淆した謎めいた存在でありつつも、それ自身の「正統性」が付与された存在でもあった。
ますます増える移民とどう付き合っていくのか
このような六部と、現在、様々な目的や状況で日本国内に移住した外国人とを単純に同一視することはできないが、日本人とは異なる「外国人」である「異人」が、彼らが移住した「場所」で、日本人との間に何かの「接触」や「事件」があった時、それが何百年も経た後、高知県O村の六部の伝承のように、いつしか全く異なった内容となり、土地に継承され続けていくのかもしれない。ただ、どのような立場や人生を生きた「異人」であっても、人間である限り、いつかは死ぬ。旅路の果てに倒れ、弱り切った格好で亡くなってしまうことのみならず、たとえ若々しく、元気であったとしても、不慮の事故や急病のリスクもある。そのような「異人」が異郷で命を落としてしまった際、善部のおばあさんのように、「異人」だからと忌避せず、手厚く葬ることを当たり前のことと捉える共同体を我々日本人は今後、維持できているのだろうか。
参考文献とサイト
■旭区郷土史刊行委員会(編・刊行)『旭区郷土史』1974年
■山口昌男『文化と両義性』1975/2000年 岩波書店
■桂井和雄『土佐民族選集 その一 仏トンボ去来』1977年 高知新聞社
■大菊一太郎『あさひ区内散見』1984年 旭区役所区民相談室
■荻坂昇『神奈川ふるさと風土図 横浜編』1985年 有峰書店新社
■新潮社辞典編集部(編)『新潮日本人名辞典』1991年 新潮社
■小松和彦『異人論』1995年 筑摩書房
■岩井洋「異人 ⑴、異人歓待、異人殺し」福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄(編)『日本民俗大辞典 上』1999年 (87頁 88頁)吉川弘文館
■真野俊和「六部」福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄(編)『日本民俗大辞典 下』2000年 (821頁)吉川弘文館
■大濱徹也『アーカイブズへの眼 −記録の管理と保存の哲学』2007年 刀水書房
■「ねこ塚と村人の温情」『横浜市PTA連絡協議会 横浜の民話』
■「『移民流入』日本4位に 15年39万人、5年で12万人増」『西日本新聞』2018年5月30日