日本人の心を惹きつけてやまない桜。しかし桜はめでたいだけではなく、時代ごとにイメージが変わっている。それは桜が日本人に身近な存在であり、また、それだけ心を掴んでいるということに他ならない。花が「咲く」ことを「誕生」、「散る」姿を「死」ととらえるとそこには深い死生観が浮かび上がる。満開の桜の下でのお花見だけでなく、見上げた花々に人生を重ねた時、新しい発見があるのではないか。今回はそんな桜、またそれに魅了された人々から学んでいきたいと思う。
桜は縁起の悪い花?
2018年の桜は例年よりだいぶ早い開花となった。各地で開催されているさくら祭りも満開に合わせることができずに、今年は散りゆく花びらを見送りながらの祭祀となりそうだ。桜は“咲く”ことと同様に“散る”ことにもインパクトがある。
縁起の良くない花というと仏花に使われる<菊>、花だけがぼとりと落ちる様が武士の介錯に通じるという<椿>があるが、桜もまたその散り様から同様な扱いを受けてきた過去がある。桜は七日ということわざがある。これは読んで字のごとく桜はわずか七日ほどの短い命であるという意味だ。
平安時代、明治以降ではその儚さから「花のように散る」などマイナスイメージの例えに使われている。また、江戸時代では「家が長続きしない」と、桜を家紋にしたり、庭に植えることは避けられた。これは散るまでの期間が短いことに加え、桜はほかの木と比べると育つために大量の養分を吸い取る性質があり、桜を植えることでほかの植物がダメになってしまうという理由がある。また、桜は枝葉を広げるので育つにつれて家の日当たりが悪くなってしまうことも原因の一つだ。剪定すればいいのではと思うが、「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿」の通り、桜は枝を伐ってしまうと枯れやすくなる繊細な一面も持っている。そのため広い土地が必要となり、河原やお寺に多く植えられている。
散った後はすぐ色あせることから心変わりの暗喩としても用いられており、桜の季節の結婚は縁起が悪いとも言われている。こうしてみるとなかなかに厄介な植物であることがわかる。
散り際の美しさ
しかし一方で散り際の桜の美しさを評する人物もいる。
<花は桜木、人は武士>と言ったのは一休宗純禅師である。「花の中では散り際の桜が美しく、人の中では武士の死に際の潔さが美しい」という意味だ。
<花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは>は吉田兼好の徒然草である。直訳すると「桜は満開の時、月は影のない満月の時だけにみるものだろうか、いや、そうではない」となる。
どちらも“死”の美しさ、“生”の儚さが漂ってはいないか。
また、「花が散る」と書いて「散花(散華)」(さんげ)という言葉があるが、これは花をまいて仏に供養することという意味と同時に、花を散らすという意から「死ぬこと。戦死。」に当たる。
桜と死には密接な関係があるようだ。すぐに葉桜に変わってしまう姿も儚さに拍車をかける。
ほんの七日間の間に訪れる生と死。しかしあの一斉に花開く見事さと言ったらない。栄枯盛衰の無常感すら桜は内包しているのだ。
<久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ>
これは紀友則の句である。「のんびりと桜を見ていたいのに、そんな気持ちも知らず、桜は散り急いでしまう」という口惜しさを詠んだ句だ。
惜しまれつつ散っていく。それが人の心を大きく動かすものだろう。
桜に凝縮された生と死
お年寄りと話をすると、皆一様に「元気に過ごして、ある日ぽっくり死ぬのが理想」という。それは家族に迷惑を掛けないために、また自身も一瞬の苦しみで終えられるようにという思いから出る言葉であろうが、この願望は桜の散り様の潔さに似てはいないか。毎日必死に生きて、凝縮された忙しくも涙や笑顔がごちゃ混ぜになった時間を過ごし、誰にも迷惑を掛けず、さっとこの世を去っていく。残された人に「残念だけど、でも本人はきっと幸せだった」と言ってもらえる最期。
今年も桜の季節があっという間に過ぎ去っていく。
散りゆく桜を見ながら、落ちた花びらを掃きながら、そして芽生える新緑を見ながら、終活について考えるのもいいかもしれない。