エジプトのピラミッド、インドのタージマハールなど、古今東西、世界中の至るところで、時の権力者が眠る墓所は、その権力を反映する形で豪壮につくられ、また、その副葬品も当時最も価値があるとされた品々が遺骸と共に埋葬されていた。現代でも、それは変わらないのかもしれない。
麻薬戦争が続くメキシコでは、密売組織 大物売人の豪勢な墓が存在する
例えば「麻薬戦争」が国内で10年以上続いているメキシコでは、密売組織の大物密売人や狙撃手たちが眠るとされる墓が、贅の限りを尽くしたものとなっている。例えば、カトリック国のメキシコならではの、白い円柱を備えたチャペルのような霊廟には、天使を描いたステンドガラスが使われ、屋根にはイエス・キリスト像が立っているもの。参拝者がくつろげるようにエアコンや「リビングルーム」を備えた現代風のマンションを模したもの。「アウトロー」らしく、警報システムや防弾ガラスを備えた要塞のような作りのものなど、我々がイメージする「墓所」とは全く様相が異なっている。こうした霊廟は、今現在生きているが、いつ銃弾に倒れるか予想もつかない組織の大物によって続々と建てられ、中には建造費29万ドル(約3400万円)に及ぶものすらあるという。
日本での豪勢な墓と言えば「前方後円墳」
日本に目を転じれば、権力者の豪勢な墓所の例としては、3世紀半ばから7世紀頃までにつくられた古墳が挙げられる。特に3世紀半ばに突然、「円(丸)」と「方(台形、長方形)」とを合体させた大型の「前方後円墳」が現在の奈良や大阪に集中してつくられた。巨大な墓所をつくるには、被葬者が有した権力の大きさのみならず、膨大な時間と労力を必要とする。それゆえ、前方後円墳に葬られたのは、当時の大和・河内・和泉・摂津・山城の畿内地域を治め、なおかつ日本全体を統括するほどの勢力を有していた「王」または「大王」、そして畿内以外の地域では土地の「首長」だとされている。しかも「前方後円」という形、その表面を覆った葺石(ふきいし)、墳墓に沿って配置された埴輪、そして当時珍重された中国製、または日本国内に住んでいた中国の工人の手によるとされる三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)などの副葬品に至るまで、ほぼ共通した墓制は、現在のように迅速な情報網が張り巡らされていた時代ではなかったにもかかわらず、あまり時を隔てることなく、畿内〜備前(現・岡山県南東部)に始まり、南は鹿児島県から北は宮城県北部に広がっていったのである。
前方後円墳の形の由来は?
「前方後円」という独特な形の「意味」は諸説ある。例えば、前方部の台形・長方形は、弥生時代に多くつくられていた、丸く小高く土盛りをした円丘墓の周囲には、外部から容易に出入りできないように濠(ほり)が張り巡らされていた。それゆえ、一部の許された者が祭祀を行うために陸橋が架けられていた。その後、「橋」そのものが祭祀の「場」となり、本来の役割を失い、橋を架けることが廃され、地面そのものを舞台のように巨大化したというもの。または古代中国の宇宙観を意味する「天円地方(てんえんちほう。天は円く、地は方形と捉えていた)」が日本に流入し、それが権力者の墓の形態に影響を与えたとするものなどがある。
前方後円墳が、墓所としての機能以外に果たした意外な一面
いずれにせよ前方後円墳は、大いなる力を有した者が眠る墓であり、同時に、その独特な形状の墓に葬られることで、権力者は命に限りがある普通の人間ではなく、永遠の命を有し、そして民や自らが治めた地域そのものを永遠に守護し、恵みをもたらす「神」であると、意味づけられたとも言える。しかも土地の有力者を葬る前方後円墳の全国的な広がりは、単なる「流行」ではなく、考古学者の広瀬和雄によると、祭祀と政治が一体化した墓制を中心、または象徴とした「前方後円墳国家」の時代の表われであったと論じている。
前方後円墳は、外交においても大きな意味を持っていた
弥生時代終焉後の3世紀半ばに、大和を中心とする新しい政治体制が日本国内に勃興した。その際、全国各地の有力首長の思想的統合・同意がなければ、国全体をまとめ上げることができない。その際に中国王朝という、外部の強大な権威を必要とした。それをもって広域の交通網をスムーズに動かし、日本国内で自給できない鉄素材などの物質や高度な技術・文化を携えた人々を招来し、それを国内に広げていくための巨大なシステムを構築しなければならなかった。前方後円墳は国内の一体性を表現した儀礼装置としての役割を果たしたのである。更にそれは、国内のみに有効だったばかりではなく、中国や朝鮮半島から訪れる人々に日本国内の国威を「見せる」ためにも役立ったのである。
兵庫県神戸市にある五色塚古墳もその一つ
その一例として、4世紀後半頃につくられたとされる、五色塚(ごしきづか)古墳がある。五色塚古墳は兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目にある、県内最大の前方後円墳だ。前方後円墳を含む日本全国の「古墳」は、草や木に覆われたものが多いが、五色塚古墳の場合は、1965〜75(昭和40〜50)年に発掘調査と整備事業が行われた。草木が取り除かれ、三段に築かれた斜面には葺石が置かれ、各段の平坦面と頂上には調査の際に出土した鰭付円筒(ひれつきえんとう)盾形(たてがた)埴輪のレプリカが配置された。その結果、我々が足で歩み、円墳部の頂上まで登り、古墳時代の様子を伺い知ることができる状況になっている。
主軸長194m、後円部径125m、高さ18m、前方部幅81m、高さ11.5mを測る五色塚古墳が位置しているのは、明石から須磨にかけての海岸線が最も突出した場所である。もともと存在した垂水丘陵南麓の台地を利用して築かれたものと推察され、前方部は明石海峡に向いており、頂上からは海峡を隔てた淡路島を眺めることができる。主に三国時代の中国の魏や朝鮮半島南部の伽耶などから日本を訪れた人々は海路の場合、都がある大和に向かう際、九州から瀬戸内海に出て、必ず明石海峡を通らなければならない。また、陸路にしても、古墳の周囲には平地が少なく、丘陵の下を通ることとなる。しかも古墳そのものが聖なる祭祀の場でもあったため、墳墓の周囲に王族の居城や一般の集落が現在のように建て込んでいたとは考えにくいため、「見せる」ための「装置」としての役割を十二分に果たしていたと考えられるという。
五色塚古墳に眠る権力者とは?
この古墳に埋葬されている人物のことは判然としない。しかし『日本書紀』(720)によると、神功(じんぐう)皇后が新羅を討伐した翌年(201年)の春2月に、皇后は部下を従え、穴門(あなと。現・山口県下関市)の豊浦宮(とゆらのみや。現・山口県下関市長府宮の内にある忌宮(いみのみや)神社が伝承地)にお移りになった。そこに夫の仲哀(ちゅうあい)天皇のご遺体を収めて、海路より都に向かわれた。その時、仲哀天皇と大中姫(おおなかつひめ)との間に生まれた麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)は、神功皇后が新羅を征伐し、更に皇子(後の応神(おうじん)天皇)も新たにお生みになられたことから皇位継承に危機感を抱き、「我らはどうして兄として弟に従えようか」と言った。それを知った神功皇后は、仲哀天皇のために御陵をつくると偽り、播磨(はりま。現・兵庫県)に着いたとき、山陵を赤石(現・明石)に造営することにした。その際、海辺から船と船を繋いで橋として淡路島に渡し、その島の石を運んで山陵をつくった。そして部下の者は皆、武器を持ち、皇后を待っていたという記述がある。この記述から、「山陵」が五色塚古墳のことを指していると解釈されている。しかし、これほどまでの規模を持ち、人が葬られる石室用の石材も出土していることから、この前方後円墳が『日本書紀』が言う、仲哀天皇の偽の御陵とは考えられない。そのため、海に面したこの地域で強大な力を持っていたとされる「海直(あま)」など、記紀に登場する天皇同様に力を有した者の墓所であると考えられている。
前方後円墳の終焉とその理由
このような巨大な前方後円墳の造営は、350年ほど続いた後、7世紀初め頃には、全国的に終焉を迎える。それは6世紀半ばに日本に伝来した仏教の普及、そして646年の大化の薄葬令だけが原因ではない。墳墓に埋葬された有力者を「神」とする祭祀と政治が強く結びついていた「前方後円墳国家」の崩壊ゆえに終焉を迎えたのである。それは日本国内が「神的力」ではなく、理性的・客観的な律令によってひとつにまとめられていく新体制へ移行し始めたことによる。さらに海外に目を転じれば、隋・唐の国内統一、そしてそれらと朝鮮半島内の高句麗や百済、新羅、伽耶との争いが勃発するなど、「前方後円墳国家」時代とは情勢が大きく異なってきたことも大きい。それ以降、現在に至るまで、古墳は文字通り、「古い墳墓」、盛り土をした墓でしかなくなってしまったのである。
最後に…
3世紀半ば〜7世紀初めまでの日本の古墳と、現代の豪勢な墓所の一例である、メキシコの麻薬密売組織のありようとを単純に比較することはできない。それは日本のみならず、世界中のあちこちにおいてもはや、超絶的な力を持つ支配者、そしてその支配者が死して後も、恵みや守護などの神的な力を信じ、祭祀を行い続けることを行う人々から構成される国または地域がほとんど存在しないからである。前方後円墳をつくった「過去」の日本がすばらしいものか、非合理的、迷妄的と思うかは人それぞれだ。しかし、前方後円墳の巨大さ、そしてそれをつくってしまった人々の人的・精神的パワーにただただ圧倒されるしかないことだけは、納得せざるを得ない。
参考文献
■加藤允彦「古墳の整備」文化庁文化財保護部(監修)『月刊文化財』No. 251 1984年8月号(24−31頁)第一法規出版株式会社
■都出比呂志「日本古代の国家形成論序説 –前方後円墳体制の提唱」日本史研究会(編)『日本史研究』No. 343 1991年(5−39頁)日本史研究会
■小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守(校注・訳)『日本書紀 (1)』1994年 小学館
■小林三郎「五色塚古墳」大塚初重・小林三郎・熊野正也(編)『日本古墳大辞典』1989年(232−233頁)東京堂出版
■今井修平・小林基伸・鈴木正幸・野田泰三・福島好和・三浦俊明・元木泰雄(編)『兵庫県の歴史』2004年 山川出版社
■広瀬和雄『前方後円墳の世界』2010年 岩波書店
■神戸市教育委員会文化財課(編)『神戸の遺跡シリーズ 2 たるみの遺跡』 2011年 神戸市教育委員会文化財課
■森下章司『古墳の古代史: 東アジアのなかの日本』2016年 筑摩書房
■神戸市教育委員会文化財課(編)『史跡 五色塚古墳 小壺古墳』2016年 神戸市教育委員会文化財課