ネットの普及で、何か特別な活動をしているわけでもない「普通の人」の情報ですら簡単に分かる世の中になった。ある日、これまで全く何の縁もなかったある人の存在を知った。その人は存命ならば106歳。恐らく元は工業高校の教師で、学徒動員の教え子を見送り、昭和63年に金婚式を迎えた。老後は夫婦で旅行や登山、絵画などをして過ごしていたようだ。
何故捨てたのだろうか
そんな彼について、ネット検索をしてみると一件だけそれらしき情報が出てきた。ちなみに会ったこともないその人について、なぜネットで検索する前から詳しいのか。実は彼を撮った名前付きのアルバムが駅のゴミ箱に捨てられていたからである。
そのアルバムは一冊や二冊ではなく、段ボールで持ち運ぶほどの量だった。仮に元教師のTさんが亡くなっていたとして、その遺族もかなりの高齢だろう。いくら処分に困っても、わざわざ地下にある構内まで多量の荷物を下ろしに行くとは考えにくい。大抵は部屋や物置などで埃をかぶっているのではないか。
遺品の中でも最も処理に困るのが写真 アルバム
遺品のなかでもアルバムの類は処分に悩む。
ある人は「写真はその時その場所にいたという物的証拠」と言っていたが、生前は単なる状況を示すものとして機能しても、遺品となると死者の存在を証明する「思い出」に意味が変わり、重みが増してくる。これが遺族の心理的な負担になるのだろう。
どこか目の届かない場所にそっと置いておきたくなるのも分かる気がする。アルバムに限らず、思い出の品を処分することは遺品整理や終活を考えるうえでも重荷となるものだ。
写真や映像のデジタル化は遺品整理にも活きる
そこで近年広まってきたのが、写真や映像などのデジタル化である。終活のための身辺整理とともに「断捨離」という概念もずいぶん一般化した。無駄を省き、必要かつ気に入ったものだけを身の回りに置くライフスタイルは、「思い出」に対する考え方にも変化を及ぼしたようだ。
大事なものだけとっておき、あとは記憶や記録にとどめる。最近では街の写真屋やテナント内の店舗でも、写真を映像データとしてDVDに変換してくれる所が増えたし、ある会社では配送キットにアルバムを入れると、デジタル化はもちろん集荷まで行ってくれるサービスもある。居ながらにして思い出の整理ができてしまうのだ。終活や遺品整理をする家庭にデジタル環境がないとなると、このメリットはなかなか実感しにくいかもしれないが、案外と素敵なものだと思う。
最後に…
思い出をデジタル化し、データとして扱う。なんだか人間味のない響きだが、画像であればPCや携帯電話などのメールに添えることもできるし、それこそSNSに載せることもできる。故人が暮らした街並みや旅した風景を、家族の間でそっと眺めることも、見知らぬ誰かが「いいね」と微笑んでくれることも、デジタルなら可能なのだ。重いアルバムを何冊も引き摺り地下に潜ることはなかったのかも知れない。