日本の近世は、「死者は遺体や墓やこの世に宿らず、速やかに死後の世界に行く」とする中世的な信仰から、「死者は墓や遺体に宿って、この世に留まる」とする新しい信仰に移っていく、いわば過渡期であった。そのため、近世に入る前には希薄であった、何らかの理由で故郷と遠く離れた場所で亡くなった死者は、何とかして故郷の墓に埋葬されるのが、幸せだとする価値観が生まれた。
旅先で亡くなった旅人を無縁仏と呼んだ
そしてそれが叶わず、自分の菩提寺ではないが、行き掛かり上、死亡場所(あるいは遺体発見場所)の近くの寺院などの墓地に葬られた死者も、この時期には「無縁仏」と呼ばれるようになった。ただ、当時では、この用法も含め、「無縁仏」という言葉には、「どこにも属さない宙ぶらりんの状態にある故に、全ての人々に弔われる資格のある死者」というニュアンスもあった。
そのためもあり、当時はとにかくどこかに埋葬され、弔いを受けていれば、そのことを知った死者の家族親類や友人知人は、ひとまず安心するのが一般的であった。つまり、何とかして故郷の墓に埋葬されるのを良しとする価値観は、必ずしも一般的ではなかった面も多いのだった。
往来手形には「旅先で弔って下さい」としているケースが存在した
特に庶民層では、この価値観は余り浸透しなかった。そうしたことを裏付ける資料は、幾つかある。
例えば、庶民や下級武家の人々が、遠方へ旅をする際の往来手形(旅をする際の身分証明書)である。
これには、基本的に「万一死亡した場合は、その土地のしきたりに則って埋葬して下さるようお願いします」のような意味の決まり文句が記されていた。中には、「地元には、そのことをお伝えしなくても構いません」のような意味の断り書きが記されたケースも、あったという。
これは取りも直さず、とにかく埋葬され何らかの弔いを受ければ、その死者は適切な供養を受けたとされ、関係者一同はひとまず安心するのが、当時は当たり前であったということを意味する。
一方で、故郷に帰ったケースもあった
ただ、江戸時代も後期になると、そうした旅先で亡くなった死者を、何とかして故郷に帰してやる努力をすべきだという空気が出てきた。
その例として、備前国早島(現在の岡山県)の住人で、武家か大規模な商家の当主の母であった女性「尾池松子」のケースがある。松子は、50歳頃に日本を一周し、蝦夷地(北海道)にも渡った。そしてその帰り道、出羽国大館(現在の秋田県)で1809年に病死した。
松子の死は、出羽国の領主佐竹家の計らいで自宅に伝えられた。彼女の子息は大館に行き、母松子の遺骨や遺髪、彼女の書き残した旅の記録や詠んだ和歌を記した和歌帳(旅の記録・和歌帳共に現存しない)を早島に持ち帰った。
松子が旅先で亡くなったことを、そこの領主が全面協力して彼女の家に伝え、遺族が遺骨・遺品を持ち帰れるよう手配したのは、彼女がそれなりの有力者層に属する人物であったからだという点も、確かに大きい。 庶民層でもこうしたことが一般的になるのは、彼女の死から約100年後の、明治時代後半であった。
参考文献:近世おんな旅日記