家族葬には「家族や生前親しかっただけで行う葬儀」や「一般葬と違って慌ただしくなることがなく、最後の時間をゆっくりと過ごす」というポジティブなイメージが有る一方で「質素」や「安っぽい」、「親不孝」というネガティブなイメージもつきまとう。
どうして家族葬にはネガティブなイメージが付きまとうのか
家族葬には家族と生前に親しかった方たちだけで行うという性質を持っているため、一般葬に比べて小規模になる。そして小規模であるがゆえに低費用で済むという特徴を備えるとともに、先程も述べた通り、故人との最後の時間をゆっくり過ごすことが可能となる。
通常、人が亡くなると病院が指定している葬儀社や生前から検討していた葬儀社が対応する。そして真っ先に葬儀の日程が決まる。そして日程が決まればあとは葬儀の準備が慌ただしく始まる。例えば弔問してくる方々への挨拶や食事や返礼品等の打ち合わせ、供花や礼状などの対応、葬儀スタッフへの心遣いなど。息つく暇もないとはまさにこのことだと思えるほどの忙しさである。
家族葬であれば、これらのめまぐるしい対応の殆どが省略される。そしてその時間が故人との最後の時間に割り当てられる。
このような素晴らしいメリットを持っている家族葬だが、何故か「小規模」というワードが持つある側面だけを切り取って「質素」や「安っぽい」というイメージとリンクされてしまう。
家族葬は親不孝?
また家族葬は「親不孝」だという意見を持つ方もいる。
これまで育ててきてくれた親に対して、「安っぽい」イメージが先行する家族葬で送ることは親不孝である、というのがその理由だ。
しかしこれは先程も述べた通り、「安っぽい」とはただ単に「小規模」というワードのある一面だけを切り取っただけであるため、「家族葬」が「親不孝」であると決めつけてしまうのはかなり乱暴だ。
またそもそも親不孝とは、親に心配や迷惑を掛けることであり、それが親不孝かどうかを決めるのは、他の誰でもない親自身である。勿論、親の葬儀ともなれば、その判断は下されようもないが、もしも親が生前に家族葬で葬儀を執り行ってほしいという希望があれば、希望に応えることはむしろ親孝行と言えないだろうか。
葬儀一件当りの単価が下がり、売上が落ちてきて必死な葬儀社
では何故このようなネガティブなイメージがつきまとうのか。それは他でもない葬儀社が原因である。
超高齢化社会の日本は、この先、人口は減り続ける一方だ。そして人口が減り続けることで唯一潤うのが葬儀業界だ。しかし実は葬儀業界の市場規模は人口減少に比例してそこまで増えていない。何故ならそれまでの高い費用をかけて行っていた葬儀が廃れ、低費用の家族葬が流行し、単価が下がっているからだ。
一昔前の葬儀社は、月に数件の葬儀依頼があれば十分採算があっていたというが、単価が下がったため、その分件数をこなさなければならなくなった。例えば2014年に日本消費者協会が発表した葬儀費用の平均は約189万円だという。少々大雑把な比較であるが、インターネットで葬儀の仲介をしているサービスを見ると、最安は20万にも満たない。つまり以前ほどの売上を維持するためには10倍近い葬儀をこなす必要があるのだ。
あの手この手を尽くして単価をあげようとする葬儀社
そこで葬儀社は何をするかというと、葬儀一回当りの単価をあげようとする。
正当なサービスを提供しその対価として葬儀費用が上がるのは何の問題もない。しかしそこで葬儀社は遺族に対して「家族葬のような質素な葬儀では故人が浮かばれない」などと話し、遺族の気持ちをいたずらに利用して、単価をあげようとするのだ。
仏衣や棺・骨壷のグレードアップ、お花の量を増やす、湯灌などのオプションを付ける、食事や返礼品のランクアップなどなど単価をあげようと思えば、その手段はいくらでもある。
そして遺族の気持ちをイタズラに利用し単価を上げた結果、葬儀費用のトラブルが増える。事実、国民生活センターも最新のデータとして現時点で明らかになっている2015年の葬儀トラブルが、過去最高を更新したと発表している。
高いか安いかで葬儀の良し悪しは決まらない
葬儀に関わる当事者とは「故人」と「遺族」の二つしか存在しない。
つまり故人も満足し、遺族も満足すれば、それ以上他に何も必要ないのである。そこには一般葬にするか、あるいは家族葬にするかは一切関係ない。どちらにするか以前に、そもそもどちらが故人も遺族も納得するかを考えるほうが順番としては先である。
もしもその順番を間違え、形式や体裁を重視すると、結局何がしたかったのかが曖昧なまま葬儀を終えることになる。そうすると後は後悔しか残らない。葬儀は一回しか訪れない。葬儀は最後のお別れの場である。一度しかない最後のお別れに後悔が残ることだけはあってはならない。
葬儀社の口車にだけはのってはいけない。