日本の墓は御影石でできたものか、時代劇などで見る木の墓標が一般的だ。しかし、歌手の島倉千代子や沢庵和尚の墓があることで知られる、東京都品川区北品川にある東海寺大山墓地には、白煉瓦でつくられた墓が存在した。
何故墓石が石や木でなく、煉瓦と言っても、普通の赤煉瓦ではなく、珪質を含んだ土を原料とする「白煉瓦」なのか。それは、明治期の品川で、日本の近代化・工業化の勃興に携わった2人の男の生きざまに理由があった。
宿場として栄えた後、京浜工業地帯の一部として発展していった品川
東京23区南部に位置する品川区の北品川や南品川周辺は、中世以来、「内海」(うちうみ。現・東京湾)周辺で営まれていた漁業に加え、西国から船で運ばれてきた様々な物資が荷揚げされ、武蔵野平野の各地に運ばれていたことから、交通の要所でもあった。それゆえ江戸幕府を開いた徳川家康は、関ヶ原の戦の翌年、1601(慶長6)年に品川を宿駅にした。このことから江戸時代から明治時代までの267年間、品川は東海道第一の宿場町、そして桜や紅葉の名所として、葛飾北斎や歌川広重の浮世絵に描かれるほど、大いに賑わっていた。明治になってからは、郵便制度の施行(1871年)、陸運会社の設立による、かつての問屋場である伝馬所の廃止(1872年)、鉄道開通(同年)、娼妓開放と貸座敷制度(1872〜1873年)などの影響を受け、宿場町としての品川は衰退した。しかし機械による大量生産という近代産業誕生の場として、品川は新展開を見せることとなる。
1873(明治6)年、先に挙げた東海寺裏の目黒川沿いに、太政大臣の三条実美の支援によって、ガラス製造を行う興業社が設立された。このことは後に我々が知る「京浜工業地帯」発祥の出来事だった。この「場所」が選ばれたことは、品川から東京湾へと流れる目黒川が水力源・運輸手段として、重要な役割を果たしていたからである。興業社は工場建設、機械器具、技術指導者などをすべてイギリスから輸入、招聘して洋式板ガラスの製造に着手した。しかし技術が未熟だったことから、1876(明治9)年に事業は失敗に終わった。その施設はすべて工部省に買い上げられ、官営品川硝子製造所として、再び稼働を続けた。それでもなお、いい製品が完成しなかったこと、そして当時の日本人の生活にガラス製品が必要とされていなかったことなどから、1885(明治18)年、品川硝子製造所は、官営から民間の事業となる。
工業の祖「西村勝三」の生い立ちと白煉瓦との関わり
品川硝子製作所の払い下げを受け、ガラス製造の陣頭指揮を行ったのは、1872(明治3)年、築地に日本初の洋靴工場をつくり、今日の大塚製靴やリーガルコーポレーションの礎となった、実業家の西村勝三(かつぞう。1836−1907)だった。西村は下総国佐倉藩(現・千葉県佐倉市)側用人の三男として生まれた。三男であったにもかかわらず、彼は佐野藩に取り立てられ、藩校で勉強と武芸鍛錬にいそしんでいた。その当時、佐久間象山の大砲試射を見学した西村は、砲術の勉強をしたいと思い始めた。その後1857(安政4)年、彼は脱藩し、単独で長崎留学のため、江戸に向けて出発した。しかし体調不良により、武蔵国行田(現・埼玉県行田市)で村塾を開いていた叔父・西村玄堂の元で厄介になることとなった。そこで西村は下野国佐野(現・栃木県佐野市)で代々、茶湯釜・鍋・梵鐘・擬宝珠などを生産する鋳物業や、酒造業を営んでいた豪商・正田利右衛門を紹介された。正田は西村に、西欧の新しい砲術について指導を仰ぎたいと言った。西村はすかさず、蘭学者で、オランダのウルリッヒ・ヒュゲーニンによる『ロイク王立鉄大宝鋳造所における大砲鋳造法』(1825年)を翻訳し、『西洋鉄熕(てっこう)鋳造篇』(1854年)を著した手塚律蔵(1822−1878)の名前を挙げた。すると正田は、西村が江戸の手塚の元で砲術を学ぶための資金援助を約束した。
江戸で砲術を学ぶ中、先に挙げたヒュゲーニンの大砲鋳造法を翻訳した医者であり蘭学者の高野長英による『新製鉄砲熔解法』(1850年代)をひもといた西村は、そこに記されていた、鉄鉱石から銑鉄をつくる航路の操業法、鋳鉄の品質、鋳造法、反射炉での鋳鉄熔解法などに深く感銘を受けた。それを佐野の正田に報告した際、正田は西村に反射炉の築造を支援することを約束した。西村はさっそく、鋳物用の土と鋳物用の粘土を配合して、耐火煉瓦をつくり、小型の反射炉を築造した。しかし高野の本に記された「火ニ堪ユル石」の原料を佐野付近で見つけることができなかったこともあり、反射炉内の炉体の一部が溶けてしまうなど、最終的に失敗に終わってしまった。1857(安政5)年のことだった。この無念が、後に品川でガラス製造のみならず、「白煉瓦」こと、耐火煉瓦製造に賭ける西村の情熱となったのである。
「品川白煉瓦製造所」(現・品川リフラクトリーズ株式会社)を設立
品川硝子製造所の払い下げを受ける前、西村は1875(明治8)年に、フランス人技師のアンリー・オーギュスト・ペルグラン(1841−82)の指導のもと、芝濱崎町(現・港区芝浦)で白煉瓦の製造を開始した。そのきっかけは、同年にプレグランが上州(現・群馬県)寺尾村で耐火煉瓦の原料粘土を発見したこと、そして東京に最初の「瓦斯燈」をともすため、「瓦斯製造所」を建設することになり、ガス発生炉用の耐火煉瓦を国内で生産しようとしたからであった。
西村がペルグランとともに製造した白煉瓦の品質はとても優れており、操業開始後すぐに、ガス事業の勃興が追い風になる形で、大量の注文を受けることになる。1884(明治17)年には、深川区清住町(現・江東区清澄)にあった官営の耐火煉瓦工場の払い下げを受け、西村は芝濱崎町の工場と合併する形で、「伊勢勝白煉瓦製造所」をつくる。それを経て、1887(明治20)年10月には、品川硝子製造所内の硝子試験場の土地建物を耐火煉瓦製造所に充てることとし、「品川白煉瓦製造所」(現・品川リフラクトリーズ株式会社)を設立した。
海老名龍四の生い立ちと西村との出会い
品川の地に腰を据えてからの西村は、白煉瓦製造にますます精力的になる。1900(明治33)年には、品川白煉瓦合資会社に社名を変え、その際、煉瓦表面の刻印「◇」の中に記された「S.S」、そして社名の「SHINAGAWA」を商標登録した。このように技術開拓、原料地の開発をさかんに行う中、西村は1893(明治26)年に、ひとりの技師・海老名龍四(えびなりゅうし)(1868−1902)を迎えた。
海老名は1867(明治元)年、三河挙母(みかわころも。現・愛知県豊田市)の武術師範の家に次男として生まれた。明治新政府になってから、家が没落したため、海老名は貧困の中に育ったが、刻苦勉励を重ね、東京職工學校(現・東京工業大学)の化學工藝部陶器玻璃科で学んだ。卒業後の1890(明治23)年には、全科第4回卒業生の1人に選ばれる秀才ぶりだったが、公職につくことはなく、大阪の耐火煉瓦製造所・五成社に入社し、耐火煉瓦の製造に従事した。しかしすぐに辞し、自ら本所錦糸堀(現・墨田区錦糸)で家内手工業的な耐火煉瓦工場を設立した。海老名はそこで、天井用の珪石煉瓦の優品や、古河鎔銅所(現・古河電気工業株式会社)の反射炉用耐火材料の製造を行っていた。しかし工場は資金繰りに行き詰まり、自営が不可能になってしまった。そんな折、1891(明治24)年に窯工会(現・日本セラミックス協会)で、海老名は耐火煉瓦について講演する機会があった。それを西村が知ることとなり、海老名が技師として働くことになったのである。そうした中で海老名は、1894(明治27)年9月4日付、特許第2339号、「珪石と酸化鉄100:15 重量比より成る珪石煉瓦、酸化鉄もしくは炭酸鉄、硝酸鉄の如き灼熱後、酸化鉄に変化するものを混和して焼成する珪石煉瓦」を取得するなど、社内の実質上の技師長としての役割を担っていた。
海老名の数々の逸話
1896(明治29)年に、政府は国内に製鉄所を建設するため、欧州に調査団を派遣した。その際海老名は、西村に随行する形でおよそ10ヶ月間の旅に出た。海老名と船や車での旅の間、ずっと同室だった、応用化学者の高山甚太郎(1856−1914)は海老名について後に、「かつてこの技師から会社に対して不平らしき言葉をきいたことは一度もなかったのです…(略)…いつもきくことは、いろいろ試験をして、どういうふうにやったら好結果が得られるかという苦心でありまして」と述べていた。
また、日本鋳鋼所(現・新日鐵住金株式会社)を創立した羽室庸之助(1867−1944)が語ったところによると、羽室がドイツのある製鋼所で職工として働きながら鋳鉄の勉強をしていたとき、東京職工学校の同窓だった海老名が突然、羽室の下宿を尋ねて来た。海老名は調査団の正式なメンバーではなかったため、工場見学が許されなかった。だから何とか見学できないかと訴えたのだ。そこでふたりは、海老名がたまたま持ち合わせていた、京都名所を染めぬいたハンカチを手みやげに、製鋼所技師長夫人を訪問することにした。羽室は海老名のことを自分の従兄だと紹介し、染色技術の習得のためにドイツに来たが、羽室が働いている様子を故郷の母親に知らせてやりたいので、何とか工場見学の許可を得られないかと、夫人に頼んだ。ハンカチが気に入った夫人は、快く承諾した。数日後に行われた晩餐会にふたりを招待した夫人は、その場で夫を説得し、海老名の工場見学が許されることになった。
見学の日、目的としていた珪石煉瓦工場内に足を踏み入れた瞬間、海老名は全神経を集中して周囲を見渡しながら、工場内の一塊の原料、一握りの配合素地、一片の製品をポケットに収めることに成功した。その夜、海老名と羽室は祝杯をあげたという。
35歳という若さで亡くなった海老名に白煉瓦のお墓を作った西村
日本に戻ってすぐ、海老名は持ち帰った原料の固まりと似た珪石を発見するため、品川から東海道を、会社から報償としてもらっていた自転車で往復し続けた。1901(明治34)年、ついに三河(みかわ。現・愛知県東部)で珪石を発見した。しかし不運なことに、原料を求め、風雪を冒して走り回っていたため、海老名はその年の年末に風邪を引いてしまった。東京に戻り、赤十字病院に入院したものの、翌年の1月には腸チフスを併発してしまい、21日に亡くなってしまった。35歳の若さだった。
西村は海老名の死を深く悼み、生前に海老名が、耐火煉瓦の材料で墓碑を作って欲しいとたまたま語っていたことを忘れず、実際に白煉瓦でできた大きな墓を作った。その墓には、正面に「寒心院技能龍四居士」と刻まれ、90cm角の台座の上に55cm角の墓台があり、その上に高さ89cmの墓石が立てられていた。総重量は930kgにも及ぶ。これらすべては白煉瓦でできていた。西村は海老名の死の5年後に亡くなったのだが、彼が葬られた東海寺大山墓地内の墓所のすぐそばには、海老名の白煉瓦の墓が存在していた。
日本全国で使われることになった白煉瓦
1993(平成5)年に、墓を守る東海寺の了承を得て、耐火煉瓦技師として働いていた碪常和が白煉瓦の墓の品質分析を試みた。すると、大型煉瓦であるにもかかわらず、気孔率16%以下と、よく焼締められており、やや多めの酸化カリウムを含む原料粘土の選定とその処理、添加水分12〜15%程度にした成型時の充填密度、入念な焼成温度と時間の保持などが明らかになった。それらを詳細に調べたところ、白煉瓦の墓は、海老名の研究成果品である硝子槽用の大型耐火煉瓦だった。しかもそれは建造から90年以上にも渡って、高品質を保ち続けていた。
品川白煉瓦合資会社は1903(明治36)年に株式会社化された。それに伴い、技術革新を更に進め、鉄鋼用の耐火煉瓦製造に着手するなど、関東における最大規模の生産量を誇る耐火煉瓦製造所となった。品川白煉瓦社製の耐火煉瓦は富岡製糸所、横浜瓦斯局、東京瓦斯局、東京駅、そして自社で耐火煉瓦工場を持つまでの官営八幡製鐵所(現・新日鐵住金八幡製鐵所)など、まさに日本の「近代」を物語る全国各地の様々な施設で使われた。
最後に…
現代を生きる我々は、偶然テレビなどで日本のものつくりのすばらしさや、先日ノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典教授の偉業などを目にした際、「すごい!」と感動したとしても、日々の忙しさゆえにすぐ忘れてしまう。
最先端の科学や技術のみならず、蛇口をひねれば、いつでも清潔な水が出、コンビニに行けば、深夜であろうと早朝であろうと、おいしいお弁当やおそうざいを買うことができ、冬に風邪やインフルエンザが大流行しても、毎年大量の死者が出続けているわけでもない。それにもかかわらず、これらのことを「当たり前」として、深く考えたり、感謝することもない。
しかし、最先端の技術が我々の生活のいたるところで用いられ、そして網の目のような物流システムが構築され、正確で安全、そして清潔な「日本」が作り上げられているのは、西村勝三や海老名龍四のような、多くの過去の先人たちの努力のたまものに他ならない。また、海老名が埋葬された白煉瓦の墓からわかることは、日本の「ものつくり」の黎明期においては、単に技術力の向上、そして欧米列強に追いつけ追い越せの競争心ばかりではなく、その陰に、キーパーソンとなる人との出会い、そして人と人との情や心の強いつながりも存在していたのだ。現在の恵まれ過ぎた環境を生きる我々は、今ここで一旦立ち止まり、過去を振り返り、感謝する時に来ているのではないだろうか。
参考文献:品川区史 2014、 品川の記録 戦前・戦中・戦後―語り継ぐもの、 品川区史跡散歩 (1979年)、 品川区の歴史、 創業100年史