東京都文京区大塚5丁目に、大変珍しい江戸時代の墓地が残っている。それは、「大塚先儒墓所」という名の墓地である。明治大正期には、「儒者捨て場」という俗称で呼ばれることが多く、その頃の記録でこの呼称が出てきたら、それは大塚先儒墓所のことを指す。
ここの出入り口は、現在通常施錠されており、特定の手続きをしないと、訪れることはできない仕組みとなっている。なお、鍵は現在、近隣の吹上稲荷神社が管理している。
大塚先儒墓所とは儒教式の墓地のこと
大塚先儒墓所は、江戸時代に幕府や諸藩に仕えた儒者を専門に埋葬した墓地であり、日本でも極めて特殊な「儒教式の墓地」である。この大塚先儒墓所に埋葬された儒者たちは、あくまで「個人」として葬られた。江戸時代はいわゆる儒教道徳が興隆し、「家の墓」が登場し始めた時期であるが、「儒教式の墓地」では一般的イメージとは異なり、「家の墓」は採用されなかった。
その理由は幾つかあるようだが、「近世日本型儒教道徳」では、実は「家族」は、必ずしも「神聖不可侵」のものではなかったからであるというのも、理由の一つであろう。わかりやすい例を出すと、歌舞伎や文楽などで、いわゆるお家騒動の物語が多いのは、一つには「近世日本型儒教道徳」では、「家族」を必ずしも「神聖不可侵」のものではないものとみなしていたから、というのもある。
土饅頭型の墓タイプであった「儒教式の墓」
ところで、現在の大塚先儒墓所は、江戸時代とは異なる見た目となっている。大塚先儒墓所は大正時代に整備されているが、その際、いわゆる土饅頭であった墓を、平らに地均しして、円形に石を組んで墓の目印とした。なお、それぞれの墓には、様々な大きさのシンプルな形状の墓石が建っている。これは江戸時代のものなのか、それとも大正期の整備の際に建てられたものなのかは、筆者は未確認である。
元は「土饅頭」であった、ということは、江戸時代の「儒教式の墓」は「土饅頭」を築く様式であった、ということを意味する。なお、「土饅頭タイプの墓」は、中世の日本でも造られ、ルーツには諸説がある。しかし、江戸時代の「儒教式の墓」の形状は、中世日本の「土饅頭」墓と共通の、「土饅頭」という俗称で呼ばれるが、その様式を踏襲したものなのかどうかは、わかってはいない。
最後に…
ただ、「儒教の祖孔子の活躍した時代である古代中国の墓を、本で読んで知ったイメージだけで勝手に想像し、再現したもの」である可能性も、ないとはいえない。パオロ・マッツァリーノ氏によれば、1904年に漢学者「松平破天荒」が、読売新聞上で、清朝中国に行って孔子の墓(とされている史跡)を見た時のことを書いているという。そこで松平が報告した孔子の墓も、「土饅頭」の形状であったそうだ。
これは明治期の報告なので、江戸時代の人々が参考にできるわけがない。しかし、例えば有名な「孟母三遷」の故事なども含め、前近代日本の教養人の間で「常識」であった漢籍には、墓や葬儀に関する描写が幾つか出てくる。こうした、断片的に描かれた古代中国の葬儀や墓の描写から、「土饅頭」タイプの墓を想像し、自分なりに「再現」したものである可能性も、皆無ではなさそうだ。
参考文献:古墳とはなにか 認知考古学からみる古代、 民衆生活の日本史・火、 東京街角お地蔵・稲荷・石塔めぐり 散策地図付き、 エラい人にはウソがある 論語好きの孔子知らず