先日、友人の父上が他界されました。父上を亡くされた哀しみだけでなく、葬儀にまつわる様々な事柄で気疲れしたせいか、やや疲れた面持ちの彼女。ランチタイムに仲の良い同僚と集まり、ぽつりぽつりと語る彼女の話の流れから、ふと、戒名の話になりました。
実は存在した戒名代の相場
馬鹿にならない葬儀代とお墓代。彼女は自分の家の宗派も分からないくらい、あまり熱心とは言えない仏教徒でしたが、お葬式を執り行うには戒名が必要になりました。葬儀会社の方が「あうん」の呼吸で出してきた「戒名見積もり表」には、こう書かれていたそうです。
『院号=100万円』『居士=50万円』『信士=30万円』也。
もちろん、お布施とは別料金です。
『高い・・・』彼女は思わず呟きました。
すると、そういう彼女のような遺族を見慣れていたのでしょう、葬儀会社の方はすかさず『もちろん、お気持ちで結構ですが、通常このような金額になります。ただ、最期の親孝行として良い戒名を付けて頂きたい、と仰るご遺族様も多いようですよ』と言ったそうです。
彼女は母上と散々迷った挙句、結局シンプルな『信士』を付けてもらい、葬儀をつつがなく終えたそうです。
でも、良い戒名は本当に親孝行の印なのでしょうか?
そもそも、戒名は必要なのでしょうか?
その後のランチタイムは喧々諤々の議論に発展したことは、言うまでもありません。
戒名の本来の意味とは?
そもそも戒名は世俗の名を捨て、仏弟子として修業に邁進する為に付ける名前だと言います。よって本当は生きている間から名を変えて修行し、悟りを得るよう努力する必要があります。
しかし現実的には、一般人が出家や仏教修行することはほどんどなく、死後に戒名を付けて『仏弟子ですよ』ということにすることが、葬儀における戒名のようです。
なんだか「死後唐突に仏弟子宣言をし、仏弟子なんだから極楽浄土へ送ってね」という感じがして、逆に仏様に失礼な気がするのは、私だけでしょうか。
そもそも仏弟子として戒名を頂くのに、なぜこんなにお金が掛かるのでしょう?以前、仏教関係者にそれとなく聞いてみたところ、『以前は檀家さんが、何かとお寺に寄進してくれたけれど、今は檀家さんも減り、葬儀でもないとお布施して頂けないから』という返答でした。
確かに仏教関係者も仙人ではないのですから、カスミを食べて生きる訳ではなく、生きていかねばなりません。その為にもお金は必要です。けれど『葬儀でしかお布施して貰えない』という今の仏教界の姿勢にも疑問を感じます。
もしもっと仏教が身近で、本当の意味で人々の心を救う『駆け込み寺』になれたなら、お布施は葬儀で貰わなくても十分やっていけるような気がします。タイのお坊さんは、托鉢の器と衣しか持てません。インドのお坊さんは衣ひとつです。もちろん妻帯できませんし、高級車も立派な家も持っていません。しかし、熱心に修行し、人々の幸せを願い続ける姿から、人々は喜んでお坊さんに寄進しますし、鉄道会社や航空会社もチケットをタダで提供します。自分に出来ない修行をしているお坊さん達を心から尊敬し、自分もそんなお坊さんに寄進することで徳を積みたいためです。そんなwin-winの姿こそ、本当の宗教の姿のような気がします。
仏教界に訪れている変革
日本の仏教界は、檀家離れと仏教離れが進み、食べられなくなったお坊さんは、派遣坊主として数万円で葬儀を行うことが増えたようです。最近では立派なお墓も不要で散骨や樹木葬がいい、葬儀も簡単な家族葬で良い、そんな人々が増えています。葬儀は故人の死を悼み、偲ぶ儀式です。葬儀の形や戒名の在り方も、そんな時代の流れで変わってくることは必然なのかもしれません。まさに『諸行無常』なのかもしれませんね。