キリスト教会式の結婚式では、誓いの言葉に「死がふたりを分かつまで」というものがある。これは、「現世」における結婚の永続性を意味する。
他方、死を「来世での結びつき」の始まりと捉え、自ら命を絶つ道を選んだ者たちがいる。日本の近世を熱狂させた「心中」だ。なぜ人々は、破滅のなかにそれほどまでの美しさを見出したのだろうか。その心性の根底を探る。
近松門左衛門が描いた「道行き」 元禄・享保を揺るがした美なき世界の美学
筆者は前回「平家物語」における、安徳天皇の「無理心中」の悲劇を題材に「滅びの美学」について書いた。儚さや、未完成さを好む日本人は死の誘惑に惹かれてきたと指摘した。
日本の文化におけるこの感性は、後世にも繰り返し顔を出している。「曽根崎(曾根崎)心中」など、江戸近世の心中物の美化と流行などは良い例だろう。
江戸中期、元禄から享保期(1680年代〜1730年代)にかけて、大坂・江戸の町人社会で心中事件が急増した。
1703年、実際に起きた醤油屋の手代・徳兵衛と遊女・お初の心中事件を、近松門左衛門(1653〜1724)が「曽根崎心中」として舞台化。これが空前の大ヒットとなり、近松はその後も「冥途の飛脚」「心中天網島」などを次々と発表。心中物というジャンルが確立された。
「曽根崎心中」のあらすじは以下の通り。
遊女お初と醤油屋の手代(使用人)・徳兵衛は深く愛し合う仲だった。だが醤油屋の主人は徳兵衛を見込んで妻の姪を嫁にし、後を継がせようと持参金付きの縁談を持ちかける。徳兵衛の実家の継母は欲深く、徳兵衛に知らせずにこれを承諾し、持参金を受け取った。徳兵衛はこの縁談を断るが、主人はお初のせいだとして持参金の返済を迫る。そんな金などない徳兵衛はお初にもう会う事が出来ないと嘆く。さらに徳兵衛に悲劇が襲う。友人の裏切りにより信用と名誉を失ったのだ。ここに及んでお初は、徳兵衛の名誉を守り、この世で結ばれないなら、あの世で夫婦になろうと共に命を絶つことを決意。ふたりは曽根崎の天神の森(現在の大阪市北区曾根崎・露天神社周辺)で、互いの愛を誓いながら最期を遂げた。
これらの作品には「道行き」の場面がある。死を決意した二人が最期の場所へ向かう道中を、美しい情景描写と心理描写で綴るもので、「滅びの美学」が濃厚に結晶している。「心中物」は近松の全生涯の作品群から見れば一部のジャンルに過ぎないが、当時の庶民に与えた衝撃は凄まじく、その影響は近代に至るまで多大だった。
模倣の連鎖を断て!享保の禁令が挑んだ「相対死」への強制改称
「曽根崎心中」の上演後、大坂近辺で模倣と思われる心中事件が相次ぐことになる。舞台が現実の心中を誘発する、いわゆる「ウェルテル効果」ー著名な自殺・心中の報道・作品化が模倣を生む現象ーが起きていたと思われ、この現象は現代においても頻発している。
特に深刻だったのは、心中が「純愛の証明」として美化・憧憬の対象になったことである。「曽根崎心中」は、遊郭の遊女との悲恋物語だが、現実でも遊女と間夫(まぶ)、つまり遊女の金銭を介さない私的な恋人との恋路が語られた。遊女と間夫は店の目を盗み逢瀬を重ねる。妓楼(遊女屋)側もある程度は大目に見ていたが、行き過ぎた場合(間夫くるい)、男の登楼を禁じ遊女には罰が与えられた。
遊女を妓楼から引き取るには「身請け」しかないが、莫大な金が必要。町人はもちろん並の武士では、遊女との恋の成就はほぼ不可能だった。そこでこの世で報われぬなら、来世で成就すればいいという考えが生まれた。根底には仏教的な輪廻転生、あるいは極楽往生による救済観念があり、心中は、絶望した恋人たちの現実的な「解決策」として認識されていった。あの世での再会という究極のロマンチシズムは、むしろこの世にいては成り立たない。苦しみに満ちたこの世で、やっとめぐりあえた人。しかしその成就がなし得ないとわかった時、死はあまりにも甘美な手を差し伸べる。「曽根崎心中」はまさに心中を考える恋人たちにとって憧れの教科書であった。
こうした事態を重く見た幕府は享保7年(1722年)禁令を発した。その内容が興味深い。「死者への処罰」として、心中をして生き残った者は死罪を課した。これは、心中を試みて生き残ること自体が罪ということ。また、心中で死んだ者は非人扱いとされ、葬儀も戒名もなく、埋葬すら許されず、遺体は路上にさらされることもあったという。
また、文化への規制として、心中物の浄瑠璃・歌舞伎の上演を禁止。実際の事件の題材化と上演も禁止された。
さらに興味深いのは「心中」という言葉を「相対死(あいたいじに)」という表現に言い換えさせたことである。言葉による死の美化、美しい言葉を剥奪することで、行為の詩的な正当化を断ち切ろうとする狙いがあった。
幕府の対応はかなり強権的で苛烈である。しかし、死を美化することの危険性を権力が認識し、言語統制まで行ったことは、現代のメディアガイドラインの先駆けとも言える。WHOが自殺報道のガイドラインで「美化しない・詳細を報道しない」と定めているのと、構造的には同じ問題意識といえるだろう。この言語統制は、言語による脱ロマンティシゼーション(反ロマン化)であり、江戸時代の文化的素養の高さが垣間見える現象でもあった。
こうした禁令はある程度の効果があり、心中事件の件数は減少したという。しかし完全にはなくなることはなかった。近松は1724年に没したが、彼の死後も心中物の需要は地下に潜りながら続き、題材を変えたり、遠い過去の話として描写する抜け道が生まれた。また、「生き残ったら死罪」という規定は、心中を中途半端にできなくさせる圧力として働いた側面もあるが、心中を思い立った者たちの退路を絶つ結果にもなってしまったのである。
近代に蘇る悲恋の幻影 天城山心中が証明した物語の引力
江戸時代が終わり、近代・現代になっても心中、または無理心中は絶えることはない。
昭和32年(1957年)12月10日、静岡県の天城山で、学習院大学の学生・大久保武道と、「ラストエンペラー」として知られる、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の姪、愛新覚羅慧生がピストルで心中する事件が発生した。身分違いの「叶わぬ恋」を理由に命を絶ったとされるこの心中事件は世間の耳目を集め、「天国に結ぶ恋」として喧伝され映画化にまで発展した。
この事件は絵に書いたような典型的な悲恋物語のシチュエーションが実際に起こったことで美化されて伝えられた。だが実際には同意の下での「心中」だったのか、男性側による「無理心中」だったのかははっきりしていない。男性側の実家は前者、女性側の実家は後者を主張している。なお、慧生の父で溥儀の弟、愛新覚羅溥傑は前者の立場を取っており、背景の複雑さが見て取れる。
この事件は男性側の自殺願望、つまり「滅びの美学」に女性が飲み込まれた印象を受ける(それでも最後の「道連れ」に至っては及び腰だった形跡すら見受けられる)。
「平家物語」や「曽根崎心中」のような物語がもつ「滅びの美学」「美しい死」の引力は、古来より一貫して日本社会に流れており、それが時に模倣を生み、道連れを生んだ。そして時には、その意思を拒む者や、その意味すらわからない幼い命すら巻き込む悲劇を現実に生んできたといえる。
タナトスと芸術:私たちが未だ掴めぬ「死」との境界線
こうした「死への誘惑」は、後にフロイトが「タナトス(死の欲動)」として理論化したものにも通じる。まさに「滅びの美学」が該当するといえる。現代心理学や認知科学ではタナトスのような情動の存在には懐疑的だが、「死」の概念が現実的に意識化されるプロセスや現象が研究されている(「死の顕在化(モータリティ・サリエンス)」。
また、現代の物語では、死に急ぐようなキャラクターを登場させ、死は逃げであり、むしろ生きることを説くパターンが多い。自殺や心中という行為そのものは抑止するべき行為であることは当然である。
それでも死には「滅びの美学」と表現するほかない、逃避以上の得体のしれない求心力があるのは事実である。人間が「生」「死」「美」という概念を持つ存在である以上、避けがたい情動なのだろう。死の美化が優れた文学、芸術を生み出しているのがその証といえる。死を遠ざけては人間の真実からも遠くなる。かといって近すぎても危険だ。私たちは死との距離を未だ掴めていない。
参考資料
■田中優子「遊郭と日本人」講談社現代新書(2021)
■歌舞伎 on the web 歌舞伎演目案内「曽根崎心中」
■露天神社(お初天神)ホームページ



























