現代の日本では、一般に故人の遺体が火葬されると、遺骨は故人の遺族や、場合によっては特に故人と親密であった友人らによる「骨揚げ」の儀式によって骨壺に納められる。
このような儀式が成り立つには、一つには、「火葬の際に、ある程度遺骨の形が残るようにできる技術があること」が前提とされる。特に現代日本では、この「遺骨の形を残すこと」を重視する傾向が強いため、この技術はより磨きがかかっている。
火葬技術の向上によって骨揚げ儀礼が生まれたとする説がある
そのため、こうした技術が発達する前の時代の火葬では、遺骨は基本的に原型を留めていなかったようである。従って、現代日本で盛んな「骨揚げ」儀礼は、少なくとも現在のような形式では、行われていなかったという説がある。
加えてかつての日本では、故人の魂は遺体や遺骨、特に火葬された遺骨には宿らないとする信仰が強かった。そのためか、肉親であっても、故人の遺骨へのこだわりは、現代に比べ大幅に希薄であった。そして前近代にあっては、故人の遺骨に対するかなりの「アナーキーさ」を感じさせる逸話が、幾つかあった。
火葬技術が低かった頃に起こった珍事件
そうした逸話の一つが、「粉末状であるため拾えない遺骨(以下、「残灰」)を、買い受けて肥料にした」ことが、大審院(現在の最高裁判所)での判決で、無罪となった裁判である。
これは1910年の判決であった。事件は、現在の岐阜県高山市に当たる地域で起きている。火葬場に残された残灰を、買い受けて肥料の原材料にした業者が、「死体遺棄罪」で訴えられた。この件に関して、大審院まで争ったわけである。
この事件の結末を簡潔に言うと、大審院による判決では、「拾えないため骨壺に納められなかった残灰は、土砂と同じようなものなので、これを買い受けて肥料の原材料とすることは、死体遺棄罪には当たらない」とされた。
昔は遺骨に対するこだわりが低かった
更に驚いたことがある。それは判決文の中に、「火葬した遺骨の残灰を肥料にするのは、当事件の発生地域では一般の慣習である」というくだりである。
「昔は徹底したリサイクル社会であった」と、よくいわれる。そしてその中でリサイクルされた資源の中には、火葬後の残灰も、確かに存在していたのであった。そして戦後に入ってからも、「火葬が一般的な地域では、遺体へのこだわりが淡白な傾向があり、故人の魂は遺体や遺骨には宿らないとする信仰が強い」という報告がされている。
大審院判決は、この報告の有力な裏付けでもあるといえる。
参考文献:墓は心の中に―日本初の「自然葬」と市民運動、墓は、造らない 新しい「臨終の作法」、民間信仰