飛鳥時代の女帝持統天皇の遺骨は、鎌倉時代に盗掘され遺棄された。しかし彼女の遺骨は、当局が盗掘犯を捕らえ、遺棄の事実を知っても捜索されなかった。
その理由として、一つには、「当時は故人の遺骨へのこだわりが少なく、何百年も前の時代の人物の遺骨の場合に至っては、例え天皇の遺骨でもこだわりはほぼ皆無であったこと」が挙げられる。
歴代天皇の中で、初めて火葬されたのが持統天皇
持統天皇は、歴代天皇の中で初めて火葬された天皇であった。
彼女の時代の火葬は、いわゆる「野焼き」タイプであった。この野焼き型火葬を始め、近代の極めて初期までの日本で行われた火葬は、遺骨が余り原型を留めない状態(つまり粉状)になるのが普通だったという指摘もある。
そのため、現代日本で盛んであり、「日本の伝統」ともいわれる火葬後の「骨揚げ」の風習も、実は近代に入ってから発生したものである可能性も高い。実際、平安時代〜近世初頭に貴人の間で火葬が盛んになった時も、火葬から遺骨の埋葬に至るまでは、専門の職能民に全て任せ、遺族たちは立ち会わなかった。且つ、庶民階級の人々には火葬は縁遠く、「骨揚げ」は彼らの埋葬プログラムの中にはなかった。
当時、火葬後はほぼ粉末状になっていた
話を戻すと、持統天皇の遺骨は火葬直後、既に原型を留めない状態であった可能性が、極めて高いと考えられる。そして、遺棄されてから犯人が捕らえられ、当局が遺骨の遺棄を把握するまで2〜3ヶ月かかっていた。
つまり彼女の粉状の遺骨は、屋外で2〜3ヶ月間風雨にさらされており、その結果既に土に還っていた可能性が高いわけである。それに加え、盗掘事件のあった鎌倉時代は、故人の魂は遺骨には宿らないとする信仰が一般的な時代でもあったということも、忘れてはならない。
これらのことから考えると、「亡き女帝は死去当時既にきちんと弔われており、遺骨には故人の魂は宿らない。従って、犯人がきちんと捕らえられ刑罰を受ければ、彼女の遺骨が既に墓以外の場所で土に還っていても、それはそれでいいのだ」というのが、当時の常識であったに違いない。
女帝の遺骨が捜索されなかったのには、こうした理由もあったことだろう。