日本の歴史において、時代や階級などによって様々な埋葬方法がとられた。
例えば火葬は、現代では当たり前となっているが、それ以前においては、中世でも、支配層の間でそれなりに主要な埋葬として利用されていた。しかしその一方で、江戸時代の初期にはタブーとされていた。
なぜ江戸時代にタブーとされていたかは、諸説あるが、その内の一つは以前に触れた通り、「親や主人の遺体を焼くことは忠孝道徳に反する」とする儒教の考え方がこの時代強くなったことが挙げられる。
しかし実は、火葬がタブー化した大きな理由は、それだけではなくもう一つあったと考えられている。それは「穢れる煙」問題であった。
豊臣秀吉が土葬された一つの説
この「穢れる煙」問題がその時々の政権や一般庶民の悩みの種となってしまう状況は、既に安土桃山時代の末期に始まる。
1598年に豊臣秀吉が亡くなると、彼を祀る豊国社の建立が計画され始めた。その際、建設予定地の近隣の鳥辺野にあった広大な共同墓地と火葬場、特に火葬場から発生する「臭気」が問題とされた。この結果、火葬場のみがやや離れた建仁寺門前に移転することとなった。
秀吉の時代には、高位の人々の間ではまだ火葬が余りタブー視されてはいなかったが、それにも関わらず時の最高権力者であったはずの秀吉本人は火葬されず土葬された。理由は様々なことが考えられる。しかし一つには、自分の遺体が「臭気」や「穢れた煙」の発生源になってしまうことを、死後の自分の神格化の妨げとして忌避したからとも考えられる。
その他の火葬の際の臭いや煙がもたらした幾つかの事例
少し後の時代の江戸では、浅草や下谷の寺院内にあった火葬場からもたらされる「臭気」が、徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺にかかるとされたようだ。そのためか17世紀後半には、火葬場はもっと江戸の市街地から遠く刑場が近い小塚原に移転させられている。
なおその少し後の頃の大坂でも、梅田にあった火葬場が、「穢れた煙」が自分たちの家や店にかかることを忌み嫌う近隣住民の訴えにより、郊外に移されたという。
村落部でも似たような例が報告されている。例えば現在の大阪府豊中市では、18世紀前半に村内で伝染病が流行した際、その原因は村の神社に火葬場の煙がかかったことによる祟りとみなされた。そしてその火葬場は移転させられている。
最後に…
また、これは火葬場から発生する煙や臭気を直接タブー視した話ではないが、北関東や南東北の幾つかの地域では「コノシロ」という魚を食べることがタブーとされた。
理由は、この魚は焼くと亡くなった人を火葬する際のような臭いがすると考えられたからである。
ちなみに元禄時代に活躍した俳人 松尾芭蕉の「奥の細道」でも、そのことに言及したくだりがある。
このように、様々な場面で「火葬と悪臭・穢れ」問題が取り沙汰されるようになったことも、江戸時代に火葬がタブー化したことと無関係ではないだろう。