死装束を着せ、死化粧を施し、真っ白な布団にご遺体を寝かせる。通夜、告別式を経て、最後は霊柩車で火葬場に搬送し荼毘に付す。
日本ではこのような仏教形式の葬式が主流となっている。このような葬儀から火葬までの確立された流れを見ると、遺体を重要視し、大切に扱っているように見える。
しかし仏教は他の宗教と比べて遺体に対して重要視していないと思われている部分がある。それは火葬だ。
火葬ではなく土葬が主流なのは、魂と身体が一致していると考える宗教が多いから
なぜなら死後の世界では、亡くなった本人の魂は本人の体の姿かたちがすべて同じと考えている宗教が多く、本人の姿かたちそのものである遺体を火であぶるという行為が信じがたいものだと思われているからだ。事実一部の宗教を除いてはほとんどが土葬となっている。
以前、筆者の友人がムスリムの学生に「なぜ日本では遺体を火で燃やすの?」と聞かれたことがあると話していた。イスラム教徒にとって遺体は「死者の復活」に必要なものであるので、遺体を火で燃やすのは故人に対する侮辱だという。その友人が「遺体を燃やすと出る煙は亡くなった人を天に昇って行くと考えられているんだよ。」と答えると、その学生は納得したらしい。他の宗教でも納得できるようだ。
遺体に対する考え方が柔軟であるという見方も出来る仏教
仏教では輪廻転生が信じられている。魂には姿かたちがなく、亡くなったあとも他の体に移り、生まれ変わってこの世に現れると考えられている。つまり遺体には「亡くなった本人」は存在しない、遺体は抜け殻であるということになる。
もし外国人や仏教以外の宗教を信仰している人から「遺体を大切にしていない」と言われても日本人はピンと来ないかもしれない。しかし言い方を変えれば、他の宗教と比べて「遺体に対する考えが柔軟」だとも言える。
日本ではかつて土葬が主流であったにも関わらず、戦後は火葬へと葬送方法が変わっていった。そうなったのは、経済が発展していって都市部に人と建物が密集し土葬していく土地が少なくなったこともあるだろうが、「遺体に対する考えが柔軟だった」からこそ火葬が主流になっていったのだとも考えられる。
柔軟であるがゆえの極端なケースも
遺体に対する考えが柔軟であるために極端な方に行くこともある。
チベット仏教では「魂が抜けた肉体は不要であるため、何かしらの施しをした方がいい」という考えが根付いており、チベットでの一般的な葬送方法は遺体を鳥に供する鳥葬となっている。チベット人は「その肉体の中に故人はもういない」と考えているのだ。
「大切にしない」という言い方はかなり極端な言い方であるので、これに関して怒る人がいたならば申し訳ないと思う。考え方によっては「遺体の中には故人はいない」のかもしれないが、しかしその遺体の外見は生前の頃とほとんど変わっていない。故人が現世に残した遺体をどう扱ってほしいと思っていたかを考えてみてもいいかもしれない。遺体に対する考えが柔軟な仏教だからこそできることも多いはずだ。