日本、特に東北地方(山形県や青森県)には伝統的な死者供養の風習が残っている。そこには幼くして子を喪った家族たちの、「死者の成長」「その後の人生」を願う思いが込められていた。
ムカサリ絵馬と花嫁人形――あの世での結婚を願って
冥婚(めいこん)は、亡くなった人を結婚させる、あるいは死者と生者を婚姻関係で結びつける習俗。世界各地に類例が見られる死者儀礼である。
日本では山形県村山地方の「ムカサリ絵馬」が知られている。「ムカサリ」は方言で「嫁入り」を意味し、未婚のまま亡くなった人のために、花嫁・花婿姿の人物を描いた絵馬を寺社に奉納して、あの世で結婚できるようにと願う。そこにはその人が送るはずだった「将来の日常」が描かれている。絵馬に実在の人物を描くとあの世に連れて行かれるとされるため、伴侶には架空の人物が描かれる。これは「この世では結婚できなかった。しかし死後の世界では結婚している」とし、死者が送るはずだった人生を補完する行為だといえる。
青森には「花嫁人形」という風習もある。亡くなった未婚者の供養のために人形を奉納する習俗であり、代表的なお堂としては、つがる市の弘法寺や五所川原市、川倉賽の河原地蔵尊が知られている。
弘法寺は花嫁人形奉納の発祥地とされており、戦後、息子の戦死に直面した親が「カミサマ」と呼ばれる巫女から「結婚したかった」という息子の言葉を聞かされ、伴侶の代わりとなる手作りの人形を寺に納めたのが始まりとされる。現在、弘法寺の境内には花嫁人形など約900体を納めた「人形堂」が建つ。一方、河原地蔵尊は津軽の賽の河原・地蔵信仰の霊場として知られ、弘法寺で始まった供養が伝わったとの説がある。いずれも故人が男性の場合は遺影と並べて花嫁人形を、故人が女性の場合は黒紋付袴姿の男性人形を添える。子供の人形が一緒に納められることもあり、これはあの世での家族を完成させてあげたいという遺族の願いの表れだろう。
死者を成長させる、という供養のかたち
ムカサリ絵馬と花嫁人形には、「結婚できなかった子が、死後も未婚のままなのは忍びない」という遺族の思いが込められている。日本では死者を生前の年齢のまま捉えることが多い。だからこそ恐山の「賽の河原」に訪れる人たちは、子供の代わりに石を積むのである。それゆえに、あの世で成長させてあげたい、「あなたの人生はそこで終わったのではない」という形を与えるのだ。
藤子・F・不二雄の短編漫画『山寺グラフィティ』には、ムカサリ絵馬や花嫁人形がモチーフと思われる「夫婦こけし」が登場する。若くして娘を亡くした父親は、娘のこけしの伴侶として、幼なじみである主人公の男性に似せた顔をこけしに描く(※注)。父親は「嫁に出しちまえば親の責任はそれまでよ」と語る。これは供養をグリーフケアと考えた場合、一つの穏やかな着地点だといえる。娘と過ごすはずだった時間を思う日々も、「嫁いだ日」をもってひとまずの区切りとなるのだ。作中ではその後、主人公のもとに彼女の霊が自分(主人公)に似た男性と共に訪れ、「結婚した」ことを幸せそうに報告する場面が描かれる。
(※注) ムカサリ絵馬では、実在の人物を描くことは「あの世へ引きずり込まれる」として固く禁じられている。作中でこの禁忌が破られているのは、風習の表層ではなく「供養の心」という本質のみを受け継ぐ現代的な解釈であると同時に、「主人公に災いが及ぶのではないか」と読者に予感させるホラー的なミスリード(演出)ではないかと考えられる。
「千の風になって」とは相容れない死生観
「冥婚」のような風習には、若くして亡くなった子どもをめぐる供養の場に、死後の成長や結婚という観念が組み込まれている。
一方で、こうした「死後の成長を願う供養に対し、「私は墓にはいない」と歌う「千の風」に代表されるような対照的な死生観がある。死者が風となり、雨となり、虹になって自然に溶け込んでいくかのような死生観は、現代人の欲求を満たしているように思える。科学的世界観のもとで霊魂や死後世界を素朴には信じにくくなった現代人の感覚、墓や法事といった古い慣習への抵抗。しかし、それでも割り切れない死者への想いの落としどころといえるだろう。墓じまいや自然葬などにつながっていく感覚かもしれない。
しかし、そこには死に対する「慟哭」がやや薄く感じる。例えば墓じまいを模索している人の多くは、終活を意識している当人とその家族ではないかと思われる。およそ70〜80代の当人にとって親や祖父母の死は遠い昔の出来事であり、その子供世代にとっても親はまだ健在であることが多い。つまり「千の風」は、幼い子供の死や病気・事故による突発的な悲劇を味わったことのない、比較的穏やかな人生を送ってきた人々が受け入れやすい死生観といえるかもしれない。これは幸福というべきだろう。だが、突如として理不尽な死に見舞われた人々にとって、死者は風でも雨でもない。唯一無二の「あの人」、個としての「あの人」そのものなのである。
抽象化できない、たった一人の死者への祈り
東北地方には恐山がある。今でも亡き人の声を求めてたくさんの人々が訪れる。そうした人々にとって、おそらく「人間は死ねば自然の循環に戻ります」という説明だけでは足りないのだ。ムカサリ絵馬も花嫁人形も同じである。「この人に、この人生を送ってほしかった」という切なる願い。死者は決して抽象的な自然の一部などではなく、死んでもなお替えがたい「あの人」なのである。
本当ならこの年齢になって、こういう人と出会い、こういう人生を送っていたはず……という実現しなかった人生を絵に描き、人形に託す。冥婚という風習は決して単なる迷信ではない。実証的な科学的思考や抽象的な文学的表現では割り切れない悲嘆を受け止める、極限のリアリズムではないだろうか。不条理に別れざるを得なかった人たちにとって、この世での「死」は終わりではなく、物語の途中に打たれた「栞」でしかないのである。
参考資料
■「わが子悼む思い形に 花嫁人形供養」 陸奥新報 2023年8月15日
■花嫁人形供養「その土地の文化に敬意を」 陸奥新報 2023年8月17日
■藤子・F・不二雄「藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版5」小学館(2000)
■拙稿
・問われる墓の存在理由 墓は再定義が必要? 改めて考える墓
・霊魂は年を取るのか?仏教・ヒンドゥー教・キリスト教で比較する死後の年齢



























